8/8 『憐れみをかけない』

憐れみをかけない

 20218月8日エゼキエル書8:1―18

 

Story 1:光に顔を向けなさい

 「あなたの顔を日光に向けていなさい。そうすれば、陰影を見なくてすむ。いつも真理に目を向けていなさい。そうすれば、あなたの心から不安・心配は消える。」

 これはヘレン・ケラーの言葉です。

幼いころの高熱が原因で、視力、聴力、話す能力を失いました。しかし家庭教師サリバン先生の熱血的指導に心を動かされます。三重苦を乗り越え、世界的な社会活動家として名を残した 奇跡の人です。福祉活動だけでなく、女性や被差別者、労働者の地位向上のためにも働いた女性として有名です。

  日の光り、すなわち真理や愛や希望、神の光りに目を向けなさいと言っているように勧めています。絶えず希望に顔を向けているなら、陰影に取り込まれることはないというのです。信仰生活も同じです。「希望の光」であるイエス様に顔を向けて生きることによって、失望に終わることがない人生なります。

Story2聖霊によって

エゼキエルに働きかけたのは、神ご自身でした。ヘレン・ケラーの言葉ではありませんが、「光輝に満ちた方」(2)がエゼキエルを運びます。「神の霊が彼を引き上げて連れて行った」(3)、「神の幻のうちにわたしをエルサレムへ連れて行った」(3)とも記されています。遠いバビロンの地からエルサレムへ一気に連れていきます。

ダビデ・ソロモンの栄華を極めたイスラエルは、エジプト・アッシリア・バビロニア帝国のように偉大な帝国になることを願いました。イスラエルの民が願ったのは、ヤーウェの御心ではなく、経済的な発展、軍事大国、エジプト・アッシリア・バビロニアに負けない大国になることでした。それは戦後の日本の姿に似ているかも知れません。イスラエルは自国の繁栄に頼り、お金と権力とパワーの神に頼るようになりました。一時期イスラエルも強国にはなりましたが、ユダ王国は次々と王が変り、政治は不安定となり、経済力は弱まりました。その結果ユダ王国はバビロンに支配されてしまいます。イスラエルは、ヤーウェを忘れ、王はバビロニア・アッシリア・エジプトに追従する国となったのです。イスラエルはヤーウェを忘れ、偶像礼拝を行うようになりました。

Story2:神殿の中で

 エゼキエルが神殿の中で見たものはどんな様子だったでしょうか。それらは節から16節に渡って詳しく書かれています。

第一に彼らが行っているのは、「神に激怒を起こさせる像の礼拝」(35)でした。彼らは「闇の中で、香を焚き」(12)偶像を礼拝していました。偶像は、獣や蛇などの絵です。お金の神々、地位や権力の神々でした。「富」の神です。金が第一でした。

第二に「壁に彫り込まれた像を礼拝する長老たち」でした。(1011)。長老たちは香を焚き、偶像を置き、礼拝していました。一般にアシェラ像と言われ、当時のアッシリアやエジプトでも礼拝されている神々でした。アシェラ像はパワーの神、軍隊の神、力の神でした。第三に「タンムズや太陽を礼拝する礼拝」(1416)でした。タンムズはバビロニアやエジプトで礼拝されている神々です。これも財力や権力をえる神々でした。

 イスラエルの民が欲しかったものは、お金と権威と権力と人並みになりたい欲望だけが礼拝になっていました。それらを求めるために神殿を利用しているだけでした。神の言葉を学ぶこと、聞くこと、神の御心に沿って祈ることを軽んじて密かに密室で香を焚くだけの礼拝に堕落していたのです。

 

Story3:邪悪で忌まわしいこと

聖書はこれらの行為を「邪悪で忌まわしいこと」(6,9,1517など)と言っています。

 「邪悪で忌まわしいこと」は、神の目に隠されている秘密の部屋でおこなれ、人々の目に触れない世界で秘密裏に行われます。一般に罪や恥や邪悪と呼ばれることは、表面には現れません。都合の悪いと思えることを、人は隠れて行うものです。

 邪悪はとは心がねじ曲がっていること、陰険、陰湿、ごまかしや性根が悪い、裏表があって人を逆なでして喜ぶなど意味です。サイコパスのような性格です。

 聖書が「肉の働き」と呼ぶ「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不破、仲間争い、ねたみ、泥酔など」(ガラテヤ書5章)は、心の秘密の部屋で起こり、人目に触れぬ場所で行われます。このような悪しき罪を隠している人は時として二重人格、裏表がある人間であることが起こります。

 ヘレン・ケラーの言葉で言えば、光り輝く太陽に顔を向けない姿を語っているのです。

 

Story4:神さまはどう考えたか。

このようなイスラエルの姿を聖書の神はどう理解しているでしょうか。

今日の8章では次のように語っています。「わたしは憤る」(8)、「慈しみの目を注ぐこともない」(8)、「わたしは彼らに聞きはしない」(8)と語ります。また神は「激怒する」(3,18)、「憤って行う」(5)など、神ご自身が激しい憤りをもってイスラエルの民に関わります。

 ヤハウェはこのようなイスラエルを拒みます。偶像礼拝に走るイスラエルの長老たちの祈りを聞くことはありません。新約の神は愛の神であり、旧約の神は裁きの神であると言う方がいますが、それは大きな誤りです。聖書は旧約の神と新約の神の2種類の神を語っているわけではありません。

神の愛は聖なる愛です。聖とは「罪や不正や汚れと区別すること」です。日本人は「清濁併せ飲む」のが出来た人間、理屈をこねない優しい人と言われます。それとはまったく違います。否は否と明確に示すのが神です。それ故に、神は激しく怒るのです。

神は悪を憎み、聖なる義を愛し、悪しきものとは決別する性格を持ちます。

わたしたちはこのような生き方が求められているのです。