聖霊が彼の内に入った
2021年8月1日エゼキエル書2:1―10
「マイルス・デイヴィスはブーイングを浴びた。ハンク・ウィリアムズはブーイングを浴びた。ストラヴィンスキーもブーイングを浴びた。君もたまにブーイングを浴びないと何者でもなくなる」
Story 1: ブーイング
これはノーベル賞文学賞を受けたボブ・ディランという人の言葉です。彼は1965年にあるコンサートで普通のギターを使わないで、エレキギターとバックバンドにエレキギターやドラムを使いました。ファンの人たちは自分の描いていたディランとは全く違っていたのでブーイングが起こりました。会場から「ユダ!!」と叫び声が上がりました。ディランは「お前らはうそつきだ」と言い放ちます。そして涙を流しながらコンサートを続けました。
これは「自分は不確実な人気、イメージを押し付けるファンからの自立・独立」を意味しました。彼は彼なりの音楽をやり続ける、人気や世の評判や無責任な批判に惑わされない道を進んでいくのでした。「世の人気を捨て去った」のです。30歳代の若い人気歌手にとって大きなチャレンジの道への出発でした。
Story2:自分の足で立て
聖書は語ります。「主のみ手が彼の上に臨んだ。」(1:2)、「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。」(1:2)
エゼキエルに臨んだ時、「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。」(2:1-2)です。
「自分の足で立て」とは、誰の力も借りずに自らたつことです。自分の力でやり抜くことを意味します。ボブ・ディランの例で言えば、世間におもねることなく、世間に受ける良い人であろうとすることを止めて、自らの判断で善悪を神と共に選び、自らの論理や愛や正義を選んで自立していくことです。
さらに聖書は「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。」(2:2)と語っています。聖霊の力強い内住です。聖霊による召し、召命です。聖霊の働きは人を自立させ、真の愛や謙遜を知らせ、人を神の言葉のみに生きさせる。わたしたちを「自立させることば」です。それは傲慢になると言うことではありません。謙遜に他者に心を開きつつ、自分を歩いて行く道です。あなた自身はどのように「聖霊により」自立しているでしょうか。神の言葉を語り始める土台です。
Story3:反逆の民へ
それでは、神はエゼキエルをどんな人のところへ遣わされるのでしょうか。それはイスラエルの民でした。
彼らは「わたしに逆らった反逆の民/反逆の家」(2:3、5、6、7、8)であると繰り返されます。彼らは「背いた民、恥知らずで強情な人々である」(2:3)と顕現した主は語ります。何故そう言えるかというと「彼らはわたしの言葉を聞こうとしない者」(3:7)であったからです。バビロン捕囚の出来事も神の言葉に耳を傾けない結果でした。「イスラエルの家はすべて、額も固く心も固い。」(3:7)と言われています。
エゼキエルが語る対象は生半可な相手ではありません。預言の言葉を語ればすぐに事態が良くなるという相手でもありません。語っても理解せず、語っても反対し、神の言葉を取り次いでも簡単に悔いあらためなど、起こるような相手ではないのです。預言を語ることはそれほど安易な働きではないことが書かれています。
エゼキエルにとって苦渋に満ちた神の言葉を語る使命の始まりでした。決して容易ではない使命でした。
Story4:恐れずに語る
エゼキエルに「顕現した神」「稲妻のように光る神」は、このような「強情な民」に神の言葉を語るようにと召し出します。
「主なる神はこう言われると語りなさい。」(2:5)、「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうとあなたはわたしの言葉を語らなければならい。」(2:7)と命じます。エゼキエルの使命は、イスラエルの民が拒んでも、聞き入れずとも、拒もうとも「神の言葉」を語ることでした。
受け入れてくれれば語る、批判されるから語らない、語ったら友だちが去っていく、けんかになるから語らない、今は受け入れてくれる状況が悪いから語らない、状況が良いから語るということでもありません。
「(反逆の家が」あざみと茨を押し付ける、蠍の上に座らせられる」(2:6)ことがあっても恐れずに語るように勧めます。たじろがず、恐れず、聞き入れても拒んでも語るのです。神の言葉に立つのです。いばらの冠を被せられたイエス様は、十字架の姿で神の言葉を語られました。2:4「彼らを恐れてはならない。」「またその言葉を恐れてはならない。」「彼らの言葉を恐れ、たじろいではならない。」と繰り返されます。
それは独善的になること、他者を無視する、人の声に耳を傾けなくても良いと言うことを意味しません。人の立場や状況を充分考慮しながらも、神の言葉をかたることを意味します。
Story4:聖書を食べる
最後に「語りかける者」(1:28)主ご自身は、手にある「巻物」を見せます。哀歌、呻き、嘆きの言葉がありました。さらに実際それを「食べると蜜のように甘い」(3:3)とあります。
解釈すれば巻物とは聖書です。聖書を食べ、聖書を読み、聖書に感動し、聖書から使命を受け、聖書から語る内容を受けていくのです。皆さんは聖書に生きているでしょうか?巻物が使命の中心です。
私たちの人生は多くの試練、つまり苦い言葉で満ちています。苦難(十字架)があります。しかしそれを受け入れた者(食べた者)には、復活の栄光と力が与えられ、喜びに満たされます。わたしたちはどんな困難の中にあっても「神の言葉」を伝える群れ、預言者の群れでありたいと祈ります。