7/25 『主が来られる時まで』

主が来られる時まで 
      ヤコブ5:7~20

 

Story1:忍耐する

 ある中学のクラスでアボガドの水栽培をしました。種に爪楊枝を差して可愛いコップの上に乗せて育てます。窓には「早く芽が出ろ、アボガド!」と張り紙をしました。根気強く水を変えて育てました。2か月半して初めて芽が出たそうです。途中であきらめかけた時もあったそうです。

「石の上にも3年」と言います。イエス様も「良い土地に落ちたのは、立派な善い心でみ言葉を聞き、良く守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ8:15)と語っています。

今日の5章には忍耐が何度も出てきます。「主が来られるまで忍耐しなさい。」(7)、「農夫は秋の雨と冬の雨が降るまで忍耐しながら実りを待つ。」7)、「預言者たちの辛抱と忍耐を模範としなさい。」10)、「忍耐する人たちは幸せだと思います。」11)、「ヨブの忍耐ついて聞き」(11)などです。

Story2:忍耐と来臨

 しかしヤコブは次のように告白しています。「主が来られる時まで忍耐しなさい。」(5:7)、「心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っている。」(5:8)、「裁く方が戸口に立っている。」(5:9)。

「迫っている」とは文法的には、「迫りつつある」、「かつて迫ったことがある」ではありません。「すでに近づいており、今はホンの近くに迫っている」「昔より今の方がグッと近いよ」「戸口まで来ている」と言っているのです。

イエス様を再臨の主として身近に感じられることは、大変幸せなことです。

先週は在日のミャンマー人の方の話を聞きました。観光ビザは3ヶ月で切れます。次は就労ビザで再び日本に来ました。しかしクーデターが起こって就労ビザも切れて帰国できなくなりました。難民として申請しても断られます。不法滞在になるのでいつ捕まるかも知れない恐怖の毎日です。毎日必死で逮捕されないように祈ります。クーデターに反対であることが分かると家族や親せきも逮捕拷問されます。不安です。でも神様の導きを受けて神学校行こうと思いました。でも学費がありません。言葉も十分に判らず、神学校の授業についていけないと思いました。やっと何とか試験に合格しました。入学金はわずかな貯金から払いました。でも入学金は払い戻されました。その方は神様の働きに毎日、感謝していると涙ながらに言われました。

色々な試練の中でも、神様は一緒に居ると実感したというのです。試練を通して神様は共に再臨して下さったのです。見えざる主は聖霊として再臨します。

Story4:忍耐と祈り

 ヤコブは最後の部分で何度も祈りましょうと、勧めています。「苦しんでいる人は祈りなさい。」(13)、「祈ってもらいなさい。」(14)、「信仰に基づく祈りを病人を救い、起き上がらせる。」(15)、「罪を告白し合い互いに祈りなさい。」(16)、「正しい人の祈りは大きな力がある」(16)と。

  ヤコブは苦しんでいる時には祈りなさいと言います。それは「聖霊は苦しみを知っている」からです。十字架の試練を経験された聖霊は、私たちの苦しみを充分に知っていてくださいます。

また「祈ってもらいなさい。」と言います。ミャンマーの方の証のように、私たちは自分一人では祈れない時もあり、祈りをしてもらわないと立ち上がれないときもあります。「祈らなくてもいいです。」と言われることは本当に辛いことです。

「病人を救う祈り」もあります。ポリープができる、脳梗塞になる、癌になるなど私たちは病気になります。自分の死や人生の終わりにおびえることもあります。わたしは心臓手術で入試ました。家族や親せきや教会の方々が祈ってくださいました。涙を流して祈り合いました。

無事に退院出来ました。九死に一生を得る体験を経験しました。祈りは支えです。  

また「罪を告白しあい互いに祈り合いなさい」とも勧めます。自分が知らずに犯す罪もあります。自分は傷つけるつもりはなくても、人の心を深く傷つけることもあります。その時に正直に自分の罪を告白し、互いに許し合うことを求めます。謙遜になるときに主は再臨して下さいます。

イエス様は近くにおられるので祈りなさいと言います。祈りは忍耐を生み力です。聖霊のイエス様が再臨して下さるときは祈りの時です。再臨が忍耐を生みます。いやむしろ、主の来臨の中にわたしたちも入れられているとい実感を持ちます。喜ばしく終末の主の来臨の体験です。これが忍耐の源です。皆さんはこの実感に「アーメン」と応答なさると思います。

Story4:「体」と忍耐

「聖書教育」は大変嬉しいことを書いていました。「一人で神様に向き合うことは祈りの基本です。しかし同時に私たちには共同体である教会に祈りを託すことが赦されているのです。」という事が書いてありました。

これはどういう意味でしょうか。ここでの「教会」とは「教会の本質である教会」すなわち「キリストの体である見えざる教会」を言います。わたしたちは見ざるキリストの体である教会に祈りを託すことができます。

キリストは私たちの祈りを聞きます。わたしたち罪人はキリストへ、祈りを委ねることができます。キリストに祈っていることを任せます。祈っていることを自分の手から解き放ちます。自分の手の内に祈りを握りしめないのです。自分で努力して祈りを成就するのではなく、神様・聖霊・キリストが祈りを最善に成就して下さる。それにお任せするのです。

三位一体の神は、わたしたち人間の祈りよりも、一層堅実で確実な祈りをして下さる方なのです。三位一体の神は人よりも忍耐深く、一人も一層祈り、人よりもなお一層信頼に満ちた方のです。

 

 共に主の臨在に触れる信仰生活を生きて参りましょう。