7/18 『上から出た知恵』

上から出た知恵

      ヤコブ3:13-18

Story1:知恵のある人

「日数がものを言い、

 年数が知恵を授けると思っていた。

 しかし、人の中には霊があり、

 悟りを与えるのは

全能者の息吹なのだ。

日を重ねれば賢くなると

いうのではなく、

老人になればふさわしい分別ができるのでもない。」(ヨブ記327-8

  年数が人に知恵をあたえるものではない。高齢になればふさわしい分別ができるというのでもない。分別や悟りや知恵を与えるのは「全能者の息吹」つまり聖霊なのだと言っています。バプテスマを受けて何年という、年数が分別を与えるのでありません。祈りとみ言葉が身について、神の息吹が内住して、み言葉で生きているかが信仰の質を定めるのです。

Story2:「上からの知恵」

 ヤコブが言いたいことをまとめると「知恵にふさわしい行いをしなさい。上から出た知恵を求めなさい。世の知恵と上から出た知恵の分別がつくように」(131517)ということです。「上から出た知恵」を求めるようにということです。それでは一体上から出た知恵とはなんでしょうか。上から出た知恵とは、せんじ詰めればイエス・キリストのことです。聖書はイエス様のことを「隠された神の知恵」とか「神の知恵であるキリスト」とも呼んでいます。(コリント1:24

聖書は神の知恵はキリストの中に凝縮されています。神の知恵であるキリストを求めるのです。

Story:十字架の死と神の知恵

 「神の知恵・イエス」様は何をわたしたちにもたらすでしょうか。ヤコブは「柔和、純真、温和、優しさ、従順、憐れみ、平和」(1317)をわたしたちにもたらします。いったいこれはどういう意味でしょうか。

イエス様の柔和はイエス様の十字架の出来事の中に示されています。それを見てみましょう。

イエス様は十字架に付けられる前に弟子たちに言われました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。」(ヨハネ14:9)と語ります。

イエス様の思いが弟子たちに伝わらなかったことが記されています。イエス様の残念な思いとも読めます。結局イエス様の教えは弟子たちに届きませんでした。イエス様の伝道は未完成、うまくいかずに終わろうとしているのです。イエス様は互いに平和に暮らしない、食べ物を貧しい人々と分け合いなさい。病気で苦しんでいる人に優しくしなさい。もう罪を犯さないようにと慰めを語りました。優しい思いで語られました。しかしイエスを見捨てて逃げ去るのです。そして群衆に紛れ込み、十字架を見てみぬふりをしたり、最後までイエスに従う道を捨ててしまいます。その意味では十字架は伝道の失敗の物語です。イエス様の言葉を理解していたら、十字架などに付けるはずもありません。イエス様は裸にされ、あざけりを受け、槍で刺され、十字架に張り付けにされ殺されます。

Story4:十字架の意味

ある人はキリスト教を批判して、失敗した宗教と批判します。弟子もろくに作れない。愚かな敗北の宗教だ。しかし私たちはイエス様を笑うことができるでしょうか。

ある人が感慨深く言いました。「次の世代を育てるといいながら、自分の子どもは教会に繋がっていないだよね。」と正直な告白に心を打たれました。

イエス様はわたしたちの思いに似ているのです。子どもを育てるのに完全に育てきったと言える人がいるでしょうか。自分のやりたい仕事は全部十分に完全にやり切ったという人がいるでしょうか。わたしは40日間の入院で死を身近に感じながら、自分の人生も未完に終わるのかと思いました。多くの果たせなかった夢、残念な思いを抱え込んで人は生涯を終わるのではないでしょうか。またその痛みを心に秘めながら教会に来ているのではないでしょうか。このような残念思いは教会で表されることはほとんどありません。

人は成功した人生をおくりたいものです。挫折や失敗や中途半端な感じは、信仰的とは言えないと考えられがちです。ですから心の内に秘めておきます。またはほとんど直視せずに、考えてもしようのないのです。または無視し、排除して、教会生活をしているのではないでしょうか。誰もイエス様の挫折を笑いものにすることはできません。

しかしイエス・キリストは弟子たちに、怒って「自分はこれだけやったのに、お前はそんなこともわからんのか。私の気持ちを察しきれないのか。馬鹿野郎」と上から目線になることもありません。「人の気持ちがわからいからこんなだらしないことになるんだ」と責任転嫁もしません。

むしろ弟子達の無理解の罪を背負うのです。弟子たちの無理解を十字架の姿で背負うのです。イエス様は他者を責めることなく、十字架を自ら負うのです。

これがキリストの柔和であり、謙遜です。キリストは人々の無理解を責めることはありません。自分の未完成ともいえる伝道者としての生活、人からは失敗とも見える十字架の道を、人の責任にすることなく、人の罪を自分のこととして負うのです。

Story 5:成功より大切な十字架

 イエス様の十字架から見えてくることは、「単なる成功よりも大切な挫折」があるということです。伝道に失敗してもなお他者を責めず自ら十字架を負う挫折は、人を踏み台にした成功よりも遥かに価値あるものです。

単なる成功はこの世の知恵に近いです。それは実に表面的なことです。挫折とその挫折の責任を他者に転嫁せず、みずから負う苦難の道は、無責任で、人に対して「悪いのはお前だ、社会だ、あいつだ」という生き方よりも強いのです。これが柔和、平和、従順、憐れみ、神の知恵、「上から出る知恵」なのです。

 キリストはこの知恵に生きるように我々を召しているのです。

 パウロは語っています。「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリント1:24-25

 

 神の知恵であるキリストの「愚かさ」を人生の模範として生きて参りましょう。