7/11 『人を分け隔てしない』

人を分け隔てしない ヤコブ2:1-13

 

Story1:差別的発言の中で

「・・・ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。」  20212月森氏のJOC評議会での発言は世界中から批判を受け、森氏は辞任に至りました。

これは「男が説明する見下し」(マンスプレイニング)と言われます。〈女は男よりモノを知らない、女は理性がたりない、女は男より感情的だという態度で、男性が女性に対して上から目線で、何かを解説したり知識をひけらかしたりする。アメリカやヨーロッパの女性論からすると、全く時代錯誤の悲劇的な言葉です。   

Story2:差別の現実:2:1-4

 2:2~4に教会の中にも差別があったことを書いています。「金の指輪をはめ、立派な身なりの人が入ってくると、この身なりに目をとめてこちらへどうぞと招く。貧しい人が入ってくると立っているか、わたしの足元に座るかしていなさい。」と発言する。そんな差別する様子が書かれています。

自分よりお金持ちだと媚びて自分を低くする。自分より貧しければ、見下げて自分を高い位置に置く。人を高く持ち上げたり、低く見下げて自分の立場を優位に置く。問題は、この様な人は自分に差別しているという意識がないことが多いものです。注意されてもなかなか気づかないのです。森さんは何が悪いのか気づいていないでしょう。この様な態度は現代ではモラルハラスメントとかパワーハラスメントと言われています。現代では教会でも会社でも問題になります。

Story3:貧しい者を選ぶ2:5

2;5を見てみましょう。「良く聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された国、受け継ぐものとされた。」神は「あえて貧しい人選んだ」と聖書は書いています。パウロもまた、「知恵のない者、能力のない者、家柄の良くない者、無学な者、世の無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者を選ばれた」(コリ1:2631)と言っています。

  才能ある者、財政的に豊かな人を選んだ方が教会は良くなるのではないでしょうか。頭脳明晰、お金持ち、高学歴でやり手のクリスチャン、家庭も学歴も良くて親も立派な人が、教会に来れば教会は大きくなるでしょう。そのほうが面倒くさくないし、お金も入る。会堂も大きくなる。そう考える人はクリスチャンもいます。

 何故神様は世の貧しい人をあえて選ぶのでしょうか。その答えは2:5「信仰に富ませ、ご自身を愛する者に、約束された国を受け継ぐものとなさった。」にあります。

 「信仰に富ませるために」弱い者を選ぶのです。神が全能の神であるということを知ることは、自分が無力であることを知ることです。

 さらに「ご自分を愛する者に約束された国を受け継がせる」とあります。

神様を愛するには自分が弱く無力であることを認める。そして神にのみ頼ることを知る。そのような者には「神の国」、天国、神との深い信頼関係、絆の世界と言っても良いでしょう、そのような交わりの世界を約束して下さるのです。完全な神への依存が、神の国を見るのです。

 人は神に頼ることをしません。神に頼ることは自分の敗北を認めることです。例えば、祈りや聖書を読むと漢字が読めなかったり、読み間違えたりして、自分の恥や罪が見えるのを恐れて、神の前に膝まづくことをしない人は多いものです。それは苦しいことですから。しかし恥をかいて小さくされる、つまり十字架の道をいくと、神の赦しと愛の世界は広がるのです。イエス様はゲッセマネで祈り、小さくされるて、あえて弱くなること選ばれます。この道を通ることが大事です。

Story4:矛盾の自覚:2:6-11

 さて次の2:6―11節までは2つの具体例を取り上げています。後半の事例がわかりやすいです。

それは「隣人を自分のように愛しなさい。」という教えを実行していると言いながら、実際は分け隔てをしている事例です。第二の事例の方が身近なものです。そしてヤコブは16節で「律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点において有罪となる」(10)と結論しています。ですから、「自由をもたらす律法において裁かれる者として、語り、又ふるまいなさい」と語ります。人は矛盾したものであるから、自分は裁かれる者として語りふるまうようにと警告しています。

 ある教会員の方で祈祷会に晩酌が済んでから来る方がおりました。奥さんに祈祷会に行くんだからお酒を飲むのは止めなさいと言われるですが、習慣になっているのを止めることができません。時々若い人を祈祷会の時にどなることもありました。それが噂になって教会に広まり大きな問題になりました。お酒を飲む人に批判が集中しました。本人も気にしていましたので、止めたいのですがどうしても出来ませんでした。人は矛盾したものだと思わされます。

 さて、しかしこの人間の矛盾や悲劇は神の愛に気づいていく恵みの道です。人間が弱いものである、罪人であるということに気づく事は、決して虚無的な信仰へ人を導くものでもありません。またどうせ自分は何をやっても罪人なんだという開き直りの信仰へ導くこともないのです。

むしろ自分が自己矛盾していることを知ると、神の一方的なアガペーの愛によってしか生きることができないという感謝の道へと人を導くのです。

ヤコブは最後に最も素晴らしい言葉を残して終わります。

「憐れみは裁きに打ち勝つ」(2:13

 神の憐れみは、人が持つ自分への裁き、または律法から来る深い罪意識に打ち勝つのです。最後は神の憐れみ、一方的なアガペーの中で生きることが出来るのです。これが神の国を見ること、また十字架の道を知ることなのです。