6/27 『永遠の命』

永遠の命 ヨハネ5:6―15

Story1:不老不死神の話

手塚治の漫画「火の鳥」は輪廻転生を繰り返す人々の物語です。全16巻のライフワークで長大な作品です。100年に一度出現する「火の鳥」(不死鳥/フェニックス:時空を超えて羽ばたく超生命体)の血を飲めば「永遠の生命」が得られるという設定になっています。しかし繰り返す転生のごとに、人間は常に苦しみを背負いながら再び人生を開始するという「苦しみ」の転生でもあります。

仏教ではこの転生する人生から逃れ、転生の苦しみから切り放たれた悟りの境地を、ニルヴァーナ(解脱の世界・涅槃)と言います。この世界に入ったのが仏陀です。お坊さんはこの世界に入るように修行を積むのです。「死ねば一巻の終わりだ。宗教で飯が食えるか。金を稼いで出世して事業を成し遂げて人は評価されるんだ。永遠の命なんていらない。」クリスチャンであってもそう思って教会員で礼拝を続けている方にも会ったことがあります。

Story2:キリストとは  キリスト教の永遠の命とはどんなものなのでしょうか。今日の主題は「永遠の命」です。聖書は511節「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そしてこの命が御子の内にあるということです。」ヨハネはこれを「神の証し(マルチュシア)」(9106回)とも言っています。神が存在し、神ご自身が証しをしたことが出発点です。その永遠の命は神が遣わしたイエス・キリストの内にある。イエス様とは誰か、水つまりバプテスマを受けた方(6)、血すなわち十字架の出来事(6)、聖霊が証した方(6)イエス・キリストです。キリストの中に、永遠の命があります。永遠の命とはイエス様との関係を結ぶということです。毎朝わたしは「聖書のみ言葉」を読んでいます。小さな冊子になっていて、旧約聖書と新約聖書のみ言葉を一つずつ読みます。聖書は常に希望と愛に満ちた肯定的な言葉で満ちています。そのことに毎朝驚いています。

そして朝に明るい神様の命を頂くのです。決して失望に終わることがない永遠の命を頂いています。イエス様との交わりの中で頂く永遠の命は、あたかも山の中で美しい泉の水を飲むように新鮮です。冷たい水は心の奥まで体に滲みわたります。そして山の緑や鳥の声や自然の美しさをもう一度感じさせます。緑の木陰から太陽の日差しがあたたかく降り注ぎ、心に深い満足を与えます。そして自分を赦すことを知り、自分を受け入れる満足を知り、出会う人々と喜んで出会いたいという希望を与えるのです。

命の喜びを知り、死をも乗り越えて永遠の満足の中で、どんな人とも共に、喜んで共に生きたいと思わせてくれます。

Story3:御子と結ばれている

さてヨハネはさらに続けます。512節です。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と呼ばれていない人にはこの命がありません。」同じ言葉がヨハネ4章16節にもあります。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」

神は永遠の命です。永遠の命は愛です。この永遠の命をのみ現すのが、イエス・キリストです。それが「独り子である」という意味です。

 このイエス・キリストと結ばれる時に永遠の命がわたしたちの中にあります。この時イエス様がわたしたちの内に住んでくださることは、永遠の命の内住です。それを御子と結ばれるとヨハネは語るのです。

あなたがキリストの命、神の命、聖霊の命を生き生きとした神の愛をあなたの内に受け入れるのです。するとキリストの命、神の命、聖霊の命の中にあなたは住むのです。イエス・キリストはあなたの内に働き、あなたはキリストと結ばれて永遠の命を体験します。

あなたはこの生き生きとしたエバーグリーンの命を体験することが信仰生活です。この命の互いの内住を祈り求めましょう。

死に勝り、金銭に勝り、自分の命に勝る命を頂くのです。自分の命よりも一層大切な命を頂くのです。自分の命は「永遠の命」によって、初めて命になるのです。

世の人の考えでは、人の命が一番大切で、人の命は、地球より重いと言われます。しかし人の命よりも一層深く大切なものがあります。我々の命を一層輝かせる「キリスト・聖霊・神が持つ永遠の命」です。この命が我々の命を生かすのです。

永遠の命は死んでから、未来永劫に続く命のみではありません。生きている今も、生きるであろう明日も、生きて来た苦難と試練に満ちた過去も、なお喜びとすることが出来る命です。

Story4:永遠の命

 しかし教会には色々な問題がありました。「神の子と結ばれていない人荒れた生活の人」(12)、「死に至る罪を犯していない兄弟」「死に至る罪を犯している兄弟姉妹」(16)、「信仰上の兄弟を憎む人」(18)、「この世全体が悪い者の支配下にある」(19)「惑わす霊」(6)が横行する、など問題が絶えません。

当時洗礼を受けてクリスチャンになった後に犯罪を犯した人、クリスチャンになった後教会に来なくなって信仰を捨てる人、罪を犯して教会から除籍された人、何年も教会に来ず、聖書も読まず、霊的な生活もしなくなった人が教会に来て力を振るう。そんな教会でヨハネは苦しんでいたのです。

 

 わたしたちはどのように、神の愛を生き、どのように神の愛を共有すべきでしょうか。問題はわたしたちの教会、わたしたちの信仰の判断に委ねられています。その答えは自ら発見しなければなりません。聖書はそのことを問い続けています。神の愛に誠実に生きるとはどんな教会を信仰を育てるべきでしょうか。誠実にこれらの問いに答えようとすることが、信仰の質を決めていくことなのです。