互いに愛し合う ヨハネⅠ4:7―21
Story1:愛をはぐくむ
君は愛されるために生まれたと言う曲が全世界で大ヒットしました。今回大きな病気をしました。家族の有難さをつくづく体験しました。病気をしたり、けがをしり、トラブルに見舞われた時、誰かが助けてくれることは有難いことです。病気をしたら、お前はもうだめだ、役に立たない言われることは本当に辛いことだ思います。
「紀州のドンファン」の殺害事件は本当の愛とは何かを考えさせられます。愛してあげたら自分にも利益があると思って助ける、愛すればお金になる。自分のプライドを満足さることで愛するのもどうかと思います。
また愛したいと思って思いが先走りすると理想や期待が先走ってしまい、愛することもできなくなります。自分の理想を相手に投影しすぎて、自分の理想通りにならないとお前なんか役立たずだと言うことは、愛のないことです。
愛はまた忍耐深く育てるものでもあると思います。ご飯をありがとう、車に乗せてくれてありがとうと、感謝を添えることが大事でしょう。結婚記念日や誕生日や入学や卒業のお祝いをするのも、愛し、愛されていることを育てる良い機会でしょう。
Story2:愛は神から出る
ヨハネは「互いに愛しましょう。」(四:七)と書き始めます。愛し合うことを聖書は勧めます。
しかしヨハネは、愛は神から出るものであると語ります。「愛は神から出るもの」(一)、「神は愛である。」(八、十六)、「神は一人子を世に遣わされた。」(九)、「神の愛がわたしたちに示された。」(九)「神がこのようにわたしたちを愛された。」(十一)、「御父が御子を世の救い主として遣わされた」(十四)と語ります。
神の愛が先行します。まず神が愛して下さることが先にあります。神がイエスを遣わした。神の愛が先行です。人の愛は先行者に従っていきます。神が私たちの愛に先行します。聖書教育では「キリスト者が互いに愛し合うのは人間愛や仲間意識にその根拠があるのでありません。」とあります。神の先行的な愛があるからです。この先行する愛を伝えることが伝道です。
「愛する者は神から生まれ、神を知る」(七)と語ります。神からの愛を知ることで、人の愛は始まります。
さらに「神はわたしたちの内に留まって下さる。」(十二)、「神の愛が私たちの内に全うされる」(十二)、「わたしたちが神の内に留まり、神も私たちの内に留まって下さる。」(十三)、「神がその人の内に留まり、その人も神の内に留まる」(十五)「神は愛です。愛に留まる人は、神の内に留まり、神もその人の内に留まる。」(十六)神様と人との相互内住が人の愛を引き起こすのです。
Story 3:贖いの愛
さてもう一つヨハネが語る大切な愛があります。「罪を償ういけにえとして、み子をお遣わしになりました。ここに愛がある。」(十)、「御父が御子を救い主として遣わされた。」(十四)ということです。「完全な愛」(十八)と言われる愛です。
先週も取り上げた二:二の「全世界の罪を贖ういけにえの愛」が語られています。わたしたちがまず神を愛して信仰が成立するのでありません。神がまず贖いのいけにとして、御子を捧げられたことから信仰は始まります。神様による贖いは先行車両です。
わたしたちがまず神に自分を捧げることから信仰は始まりません。神が御子を捧げられたことから始まります。
わたしたちの捧げものから信仰は始まりません。神がその一人子、たった一人の子を捧げたことから信仰は始まります。
人の信仰は、神の「贖いの行為」つまり「神の愛」に対する応答です。神の贖いの愛に応えて愛することが信仰生活なのです。教会もまた同じです。「教会は人によって成った者ではなく、神の愛によってなったもの」です。
Story 4:贖いの体験
エリ・ヴィーゼルというノーベル賞作家がおります。彼はルーマニアの小さな町で生まれました。この町はナチスに占領され、ヴィーゼル一家はアウシュビッツに送られました。囚人番号はA-七七一三でした。母と妹はアウシュビッツのガス室で死亡します。父は精神に異常をきたし、終戦の直前にブーフェンヴァルトという別の強制収容所で亡くなります。
収容所での生活は過酷でした。ある日、幼い子供たちが絞首刑になるのを収容所で、強制的に見せられました。多くの囚人たちは、ヴィーゼルにつぶやきました。『神はどこにいるんだ?神なんてこの世にはいない。何も子供を殺すことはない。ひどい世の中だ。』ヴィーゼルは答えました。「あそこにいるよ、あの絞首台の上に。大人の自分が殺されても良いはずである。本当は罪多い大人が死ななければならいのに、罪のない幼い子供が自分の身代わりとなって死んでいく。子どもたちは私たち大人の身代わりなのだ。」
この幼な子の絞首刑は贖罪の捧げものであったのです。ホロコーストは「ホロ」つまり「全部」を意味し、「コースト」つまり「焼く」を意味します。「ホロコースト」は聖書では「全焼の生贄:焼き尽くす捧げもの(へブル語オラー」等と訳されています。イエス・キリストは「全焼の生贄」です。
罪のない方を、しかも神の独り子を、自ら罪の捧げものとしました。
聖書の基本、ノモス(原則)はキリストの贖いの愛です。ですから、教会は、いつも十字架を掲げます。「教会の原則」を十字架は示すのです。
19~21までを読みましょう。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです。」(十九)にあります。神の愛ファーストです。
罪を犯す人がいたら、キリストの贖罪のように、その人に仕えるのです。無能だと思う人がいたら、嫌うのではなくてどうしたら助けられるか援助の方法を、キリストの贖いのように、探しましょう。自分から見て、傲慢な人がいたら、憎むのではなくて、諭す方法を祈って、その方法を神様に求めましょう。神様は知恵を、愛を必ず与えて下さいます。愛する方法は「贖いのためにご自分の命を捧げたイエス・キリスト」が教えて下さるのです。
交読文
交読文:神様の愛からはじまる
司式者 :神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
会衆:御子の内にいつも留まりなさい。そうすれば御子が来られたとき、御前 で、
恥じ入ることがありません。 (Ⅰヨハネ2:28)
司式者 :神がわたしたちの内に留まってくださることは、神が与えてくださった霊によってわかります。 (Ⅰヨハネ3:24)
会衆 :わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで
くださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
(ローマの信徒への手紙5:8)
司式者 :わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やキリストを通して和解 させていただいたからです。
(ローマへの信徒の手紙5:11)
会衆:愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢 せず、高ぶらない。礼を失せず、自分 の利益 を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。
(コリントの信徒への手紙13:4-5)
司式者 :不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 (コリントの信徒への手紙Ⅰ13:6-7)
会衆 :わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。(ヨハネ15:12)
一同:信仰と希望 と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは
愛である。 (コリントの信徒への手紙一13:13)