6/13 『イエスが歩まれたように』

イエスが歩まれたように ヨハネ2:1-17

Story1:「私は何者か」

D・ボンフェッファーという神学者の詩を朗読します。少し長いですが心を集中してお聞きください。(途中略あり)

「私は何者か。彼らはよく私に言う、私が自分の獄房から平然と明るく、しっかりした足取りで、領主がその館から出てくる時のように歩み出ると。

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しかしわたしは、わたしは籠の中の鳥のように動揺し、憧れて病み、誰かに首を締められた時のように息をしようともがき、花々や鳥の声を求めて飢え、渇いたようにやさしい言葉や人間的なぬくもりを求め、最も些細な無礼にも怒りにふるえる。

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私はいったい何者か? 後者か、それとも前者か?今日は後者で、明日は前者なのか?同時にその両方なのか?人前では偽善者、そして自分の前では軽蔑すべきメソメソした弱虫なのか。私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものだ。」

 時として平然と強気に生きる。しかし時に弱虫のように涙ぐみおろおろと嘆く。人は強い信仰者のようにふるまい、時に深い罪を自覚しおろおろと涙を流す。人は弱さと強気の間を行ききする罪人すぎない。しかし神はこのような両面を持つ者を知っておられる。そこに彼は救いを見出すのです。

Story2:罪人である人間

 今日の個所は罪についてのべています。初めに「これらを書くのはあなたが罪を犯さないようになるため」(2:1)、と書いています。キリストの言葉に信頼して、罪を犯すことがないためにこの手紙を書いているだといいます。しかし「たとえ罪を犯しても」(2:1)と書きます。キリストに服従してもなお人は罪を犯すものである。服従に失敗するのが人であると言うのです。「罪」とは、あなたがいくら清く明るいキリスト者であろうとしても、なお残り続けるものです。表面的な強さ、清さ、潔さ、服従と言った、強さを持っていても解決できるものではありません。

あの人は、立派なキリスト者であると思っても、期待外れを経験します。期待はずれは失望を起こします。さらに失望と落胆は怒り生みます。教会でもそれは起こります。自分が持っている相手への理想を相手に投影してはなりません。人は期待外れの存在(マハルティア:罪)なのです。

これを宗教改革者カルバンは「罪とは人間の完全な堕落」と言いました。神から「トータルに存在そのもの」が、遠く離れてしまって、神の国から堕罪したものです。

Story2:弁護者キリスト

さらに次を読んでみましょう。「例え罪を犯しても、御父のもとに弁護者(パラクレートス)、正しい方、イエス・キリストがおられます。」(2:1)の後半)とあります。

弁護者(パラクレートス)はヨハネによる福音書では「聖霊」の別名です。今朝の交読文の中にある通りです。しかしここでは「イエス・キリスト」自身を示します。聖霊であるイエス・キリストは「弁護者」であると言えます。

弁護するとは、罪を犯した人を守り、助けることです。また罪を犯した被告人に代わって、犯罪に至った経緯を説明し、情状酌量や減刑を求めます。また裁判の法的な手順を被告人・裁判官・検事などと話し合い、裁判を正当に進めます。

イエス・キリストは「罪ある者の弁護者」なのです。このことは、あなた自身が、一人では神の前で、自分で自分のことを弁護することが不可能なものであることを示します。人は言い訳をする罪人であり、人は虚実を使い分ける罪人だからです。信仰的な人が自分の罪を隠そうとしたり、罪を回避したり、責任を逃れようとする、簡単には謝罪しない、私どもはそのようなことを体験します。人に神の前で「自らを弁護する能力」は失われているのです。そのような罪人を、イエス・キリストは弁護して下さるのです。それは神の愛アガペーです。

Story3:罪を償ういけにえ

 さて2:2を読んでみましょう。「この方(イエス・キリスト)は罪、いや、わたしたちの罪ばかりではなく、全世界の罪を贖ういけにえです。」と書き進めます。

ヨハネは「わたしたちの罪ばかりではなく、全世界の罪」と言い換えています。罪は人種、時代、貧富、学歴、男女、宗教、上司・部下等の区別なく普遍的なものであることを示します。

さらに、「イエス・キリストは罪を償ういけにえ」(2:2)であると語られています。「いけにえ」は「いきている・にえ(贄)」です。「にえ」は「日本書記」等でも使われる古い言葉です。神道では「お米、魚、果物」などを捧げます。「神饌(みけ)」とも言います。 しかしイエス様は、「生きている唯一なる神への捧げもの(みけ)」です。キリスト教では、神ご自身がイエス・キリストを神への贖罪の捧げものとして、神のその一人子を捧げられたのです。それは神の一人芝居なのではありません。人間の罪は、人間自身が償うことは出来ないことを示します。だからイエス・キリストは身代わりになられたのです。旧約以来贖いの主である神が、一人子を送り、人の罪を贖う行為を行って下さったのです。これをアガペーの愛と呼びます。

Story4:新しい掟

 さらに聖書を読み進めてみましょう。「掟」という言葉に注目します。「わたしたちは神の掟を守るなら」(3節)、「神の掟を守らない者」(3節)、「神の言葉を守る」(5節)とあります。ここでの「掟(ノモス)」は「原則」とも言いかえる変えることが出来ます。この「掟(原則)」とは、わたしたちのキリストが弁護者となったこと、命の代価を払ってイエス・キリストが十字架で死んで贖いとなったことそして、生贄となられたことですこのことを信じ告白する時、「その人の内には神の愛が実現する」(5節)、「神の内にいる」(5節)と言います。

 

救いとは人間が自分の知恵や力や努力で完成するものではない。救いの開始も、救いの出来事も、救いの恵みも神のアガペーの行為であることを示します。共に救いの出来事を引き起こした神ご自身に感謝しつつ生きて参りましょう。