6/6 『光の中を歩む』

光の中を歩む ヨハネⅠ:1~10

Story1:石巻の光り

東日本大震災で石巻市は大きな絶望に包まれました。石巻市は約五千名以上の死者、行方不明者は約七百名以上で、大川小学校では七十四名の方々が亡くなりました。命を奪われ、家を奪われ、家族を奪われ、様々の思い出の品々も流されてしまいました。街の灯りも消え去りました。港湾地帯も震災ですべての港の光は消え去りました。

そのような絶望の中で、港湾近辺の企業約六十社が協力して三月十一日の夜に、一斉に港に沿った企業がライトをつけました。亡くなった方々を心から追悼し、強い祈りと願いを込めて復興を願い、希望の光を付けたのです。中島埠頭、塩見埠頭、石巻埠頭、幾つかの水路に工場の灯りがともり、静かな海面に輝く工場の光は再起の願いとと追悼の光となりました。深く大きな悲しみに出会う時に、暗闇に輝く「光」はわたしたちにとって、もう一度勇気を与える輝きとなるのです。

Story2:キリストは光

 今日の聖書箇所で「神は光であり、神には闇がまったくない。」(一:五)、「神は光の中におられるように」(一:七)と語ります。イエス様自身も「わたしは世の光です。わたしに従う者は闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われました。

光は闇を照らし、光はわたしたちの心の闇をも照らし、希望の光の働きをします。人はその象徴としてライトを照らし、時にはキャンドルをつけて、闇の中に輝かすのです。

わたしは千九百七十二年に年に教会に行くようになりました。生きる希望を失い、生きるすべを求め、存在の価値を探し、哲学書、心理学書、文学書、宗教書を読み漁りました。一九七〇年代前半は私にとって暗黒の時代でした。心の空白を誰も何も埋めてはくれませんでした。そんな中で教会に通うようになりました。姦淫の女に対して「あなたを罰することが出来る者はどこにいるか、もう今後は罪を犯さないように。」と言われるイエス様の赦しに触れて、キリスト者になりました。キリストの許しと罪の絶望からの清めは、生涯にわたり、わたしの「光と希望」となりました。

Story3:キリストとの交わり

 聖書は「光である神、キリスト」との「交わり(コイノニア)』を大切にしなさいと願っています。「わたしたちの交わり(コイノニア)は、御父とキリストと交わり(コイノニア)」(一:四)、「光の中を歩むなら交わり(コイノニア)を持ち、御子の血のよってあらゆる罪から清められます。」(一:七)などがその例です。

「神様との交わり(コイノニア)」とはどんなことを言うのでしょうか。主の晩餐式は「ハギオスコイノーニア」と呼ばれます。訳せば「聖なる交わり」です。イエス様は極めがたい聖なる方です。イエス様は目に見ることは出来ません。しかし今共に席に座っている方です。今生きて働き、我々の言葉を聞き、賛美し、一人の礼拝出席者として臨在します。今この場で、キリストと出会っているのです。そしてわたしたちに命を与えると告げています。

そのようにしてイエス様が私の内に内在して下さり、私もイエス様の中に内在する。そのような神秘的な出会いと交わりが主の晩餐式です。そして主の平安の中で生きる。聖霊、神、イエス様との交わりは、本当に麗しく平安な関係です。

聖書はこのイエス様や神様との「赦しや愛情を含む交わり(コイノニア)」がどんな結果を生むかをも書いています。「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになる」(一:四)、「イエス・キリストの血によってあらゆる罪から清められる」(一:七)、「罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清める」(一:九)とあります。この時に、キリストは心の汚れ、しつこい不安、荒れた関係も清められていくのです。あなたはあなたの閉ざされて隠した罪を赦され、心はキリストの愛に満足するのです。キリストは、清められた充足、愛されている満足感で我々を生かします。清められたこの満足感はあらゆる否定的な思いから私たちを解放します。それが清めです。あなたも罪からの清めを経験してください。主はあなたをさらに清められた交わりへと招かれているのです。

Story4:命の言葉

 この様にして得られた関係、神との平安に満ちた和解の関係が、「永遠の命」と呼ばれます。聖書はイエス様のことを「命の言葉」(一:一)、「命」(一:二)、「わたしたちに現れた永遠の命」(一:二、五:十一、二十)と言っています。人との和解の交わり、イエス様との赦しの交わり(コイノニア)」は、永遠の希望に至る喜びの命、永遠の命、平和の命です。この一章には三回永遠の命が現れる「永遠の命」は聖書の中で最も重要な言葉です。信仰生活とは永遠の命の実感の生涯です。イエス・キリストは、神が持つ「永遠の命」を私たちに与えるのです。良い交わりが出来ている人とはいつまでも話したいものです。良い関係を結べていない人とは、一刻も早くその場をそそくさと離れて、早く家に帰ってゆっくりしたほうが楽だと思わせます。イエス様との交わりはいつまでもそばに居たい良き交わりです。イエス様は恋人のようにいつまでもそばにいたい「喜びの命」です。

 Story5:罪の告白とは

後半の部分は「罪」の問題を扱っています。ギリシャ語原典を見ますと、この個所は「私たち」が何度も出てきます。しかし残念ながら訳出されていません。

「自らを欺いている」(八節)は「わたしたちを欺いている」、「自分の罪を」(九節)は「私たちの罪を」、「公に言い現わす」(九節)は「私たちが互いに罪を告白するなら」、「罪を赦し」(九節)は「私たちの罪を赦し」、「罪を犯したことがないというなら」(十節)は「わたしたちが罪を犯したことがないと言うなら」です。罪は一人で告白すれば解決するものではありません。相手への謝罪と和解を含みます。「わたしたち」の課題です。連盟では、少年少女たちが韓国のナムルの家を訪ねる旅を、十年継続しています。強制連行を体験した女性の方を訪ねる旅です。ここで日本が行ったことを聞き、そして私たちの罪を知り、それを分かち合い、謝罪する旅です。罪の告白は人との具体的な和解を含むのです。

 

今日は主の晩餐式を行います。私たちが受け取るパンとブドウジュースは神の和解の印・交わりの印です。イエス様の体は私たちの体の中に入ります。私たちもまたキリストの体の中へ入ります。イエスとの交わりです。今日ここにキリストとの交わり、罪の赦し、贖いが到来してしまっているのです。