礼拝メッセージ 5/30「真夜中の賛美」

 真夜中の賛美

    使徒言行録162540節

Story1:宣教師を覚えて

 先週のペンテコステに続いて、今日は連盟が派遣している四組の宣教師のビデオを見ましょう。シンガポールの伊藤世里江宣教師は英語、カンボジアの島田幸信・薫宣教師はカンボジア語、インドネシアの野口日宇満・佳奈宣教師、ルワンダの佐々木和之宣教師はニャルワンダ語で、ヨハネ三章十六節を読みます。

Story2:投獄の世界

パウロ達はマケドニア州第一の都市フィリピでイエス様のことを伝道して、投獄されました。鞭打たれ、衣服は剥ぎ取られ、足には木の足かせをはめられ、投獄されます。看守に見張られている状況でした。(十六:二十~二十四)鞭う当たれた傷の痛みを全身に感じ、裸にされ、寒さにこごえ、足には鎖が巻かれ、その傷も痛みます。満足に食事もできません。冷たい石の牢獄の中で、体の痛み、苦しみに耐えていました。

彼らは世間を混乱させる者、「金儲けの望みを失わせるもの」として投獄されます。(二十)また「ローマ市民権」(二十一、三十七、三十八)を持っていましたので、公平な裁判を受ける権利がありました。それ無視されました。パウロとシラスにとってこの投獄は、不法逮捕、強制監禁、公正な裁判が行われない投獄であったのです。ミャンマーの軍事政権下の逮捕に近いです。パウロとシラスにとって人権が無視された投獄でした。公平な権利は奪われ、体の痛みで眠れなかったのです。皆さんはこのような痛みや苦しみを想像できるでしょうか。イマジネーションは聖書を理解するうえで最も大切です。

Story3:牢獄の崩壊

パウロとシラスは投獄の苦しみ中で、賛美をするのでした。(二十五)

苦しみの中で賛美が出来ることは熟練した信仰があったことを示します。生半可な信仰は苦難の中で神を呪うのが普通です。神と他者に責任を押し付けます。神と自分の人生を恨みます。恨むと人と神を攻撃します。

賛美すると、大地震が起こります。牢獄は大騒ぎになりました。牢の土台は崩れ、扉は開き、囚人の鎖はちぎれ、囚人たちは逃亡してしまいました。

囚われ人を解放するのは聖書の神の本質です。神は囚われの地・エジプトからイスラエル人を脱出させます。創・出・レビ・民・申命記の主題です。また神はバビロン捕囚の囚われの身からイスラエル人を解放します。イザヤ・エレミヤ・エゼキエル・12小預言書の主題です。

この旧約の神は、キリストを死から解放し、復活の出来事を引き起こします。これも死、闇、夜、罪という牢獄からの解放の物語です。

聖書の神は一貫して牢獄と奴隷から、解放する神です。この神様は今も働きます。あなたが罪、苦しみ、悲しみ、痛み悪い習慣の奴隷になっていたら、賛美し、神の名を呼びなさい。神はあなたを救い出し、自由にします。

Story4:教会の形成

囚人から解放され、投獄から解放されたパウロ達はどうしたでしょうか。

第一に看守の自殺を思いととどまらせます。看守は囚人たちが逃亡したのを知り、自害しようとします。(二十五~二十八)なぜ自殺しようとしたのでしょう。原語を見ますと、十六章には「高官」「下役」「看守」「役人」と言った官僚制度の言葉が使われています。官僚制度の中で「つめばらを切らされる」のは、一番下級の者です。森友改ざん問題で赤城さんが自殺したような事件と似ています。官僚制度や国家の犠牲になることを食い止めます。命は政府や国家のものではなく、神のものであることを示します。命は会社のもの、企業のもの、または家族のものでもありません。命は神のご自身のものです。これらから救われることが大事です。

第二にパウロとシラスは福音を勧めます。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」(三十一)と。そして「看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。」(三十二)とあります。敵であった看守とその家族に福音を語ります。主イエスを信じ生きるようにと福音を語り続けましょう。町々村々で主イエスは福音を語りました。パウロたちはイエスの継承者です。

第三に看守は、パウロとシラスの「傷を洗い」ます。(三十三)投獄したり、迫害したりした者が分け隔てなく、助けます。「良きサマリア人の物語」を思い起します。敵を援け、敵を励まし、敵の傷を癒します。まさに「汝の敵を愛せよ」です。パウロはキリストの継承者です。

第四に彼らは「バプテスマを受けました。」(三十三)悔い改めが起こり、イエス・キリストへの服従の出来事が起こりました。バプテスマを受けて救いに与かることはどんな人生の喜びをも遥かに超越していることです。生まれ変わりの経験をしたのです。

第五に「家に招き、共に食事を出し」(三十四)とあります。イエス様も弟子たちと共に食事をしました。ザアカイの物語を思い越します。ザアカイはイエス様を自分の家に招き共に食事をしました。

第六に「神を信じて共に喜ぶ者となった」(三十四)と書いています。彼らは礼拝を始めるのです。

この様に読むと、二十七節から三十四節は教会の本質を現しています。

敵対者を受け入れ和解に生きる、主イエスを信じる者となり、傷を洗う、バプテスマを受ける、共に食事をする、神を信じて喜ぶ者として共に喜ぶ。これらは教会の原型を示しています。ここに新しい共同体、神に呼び出された群れエクレッシアが出来ます。二十七~三十四節は教会を現しています。官僚制度の犠牲から救われた家族、敵対を越えた家族、敵対者がケアする家族、主の救いを喜び、主を賛美する新しい家族、これが教会です。