礼拝メッセージ 5/2 『サウロの回心』

サウロの回心

    使徒言行録9章1~19

Story1:回心の経験

 わたしは20歳でバプテスマを受けてクリスチャンになりました。教会に通い始めて3年目でした。教会に通う前から自分が罪人であるという自覚は大変強いでした。最初新来者で大切にしてくれましたが、1年たつと皆何も言わなくなりました。

「自分自身を愛するように隣人愛しなさい」ということが良く分かりませんでした。自分を愛するよりも人を愛する方が先だと考えていました。自分を愛するという正しい自己愛が他者を他者として認める喜びだと分かったのはしばらくしてからでした。

 それでもバプテスマを受けてクリスチャンになろうとは思いませんでした。明るく元気に賛美することに馴染めず軽率で元気なゴスペルソングがとてもいやだったからです。またカッコイイアメリカみたいな洗礼名がもらえると勘違いしていたので、クリスチャンになろうかとも思いました。

 「わかっただけの自分をわかってだけのキリストに捧げなさい。ただし無条件で。」という言葉に感銘を受けてイエス様を心の内に受け入れました。それは誰も入れない、誰にも見せない自分の奥の間、誰にも見られたくない隠された奥の間にイエス様が入って来られる経験でした。自分なりの言葉で言えば「自我の崩壊」、自分が壊れると言う体験でした。自己が壊れ、穢れた自分の中にキリストが入られたという決定的な体験でした。そこからキリスト者としての生涯が始まりました。キリストの内住です。

Story2:迫害者パウロ

 パウロはどのようにしてキリスト者となったのでしょう。興味があります。今日の個所で「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところから(取り締まりの)手紙を求めていた。」(1節)と述べ、「この道の者(キリスト者)に従う者を見つけ出し、男女を問わず縛り上げ、連行しよう」(2節)と思っていました。

彼は自分が迫害者なんて思ってもいなかったでしょう。なぜなら自分は強い宗教的な信念を持っていて、それに忠実であると思っていたのです。自分がしていることが迫害だとは考え付きませんでした。自分は正しいことをしている、自分は善を行い、正義を行っていると信じており、自分には悪気があって取り締まっているのではないと考えていたのです。しかしそれが罪でした。

後にパウロは自分を顧みて「信仰の点では落ち度のない者」と自分のことを言っています。彼はとても良い人、立派な宗教家でした。努力もしないで信仰生活をおくっていない者は、怠け者、罪人だとパウロは考えていました。しかしパウロは自分の熱心が人を食い尽くしていることに気が付きませんでした。

イエス様はパウロに「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか」(4節)と、問いかけます。イエス様はサウロに直接語りました。このイエス様の語りかけはパウロにとって最初は理解できなかったでしょう。なぜなら彼は迫害しているとは思っていなかったからです。「悪いのはイエス、お前だ」と思っていたのですから。しかしイエス様の問いかけはパウロに混乱を引き起こしました。彼は目が見えなくなり、意識がなくなりました。

Story3:仲介者アナニア

 このパウロに語りかけたイエス様は、アナニアにも語りかけます。「サウロを訪ねよ。パウロのところへ行きなさい。私がわたしの名を伝えるために選んだ器です。」と(15節)語りかけます。アナニアは「何故迫害者を選ぶのか。あの人は悪事を働いている人間だ。意味がわかんね~~し。」(14節)とイエス様に質問します。

しかしアナニアはサウロを探し出して、手を置いて祈ります。そして「あなたは聖霊で満たされます。」と語ります。アナニアは自分の思いは脇に置いといて、イエス様とパウロの間を取りなす仲介者として召されました。キリスト者はいつでも仲介者です。執り成し手です。「架け橋」です。キリスト者とはこの世にしっかり生きることです。しかし世に没落しては成りません。神の言葉に忠実であり、神の言葉を生きる神の側に立つ者でもあります。仲介者とは神の国とこの世の間に立ちつつ橋渡しをする人です。アナニアはその例なのです。

私たちもアナニアの働きを求められています。それはイエス様と人との仲介役です。これが伝道です。家族を養う、教会で奉仕する、夫婦で生きる、職業を持つ、献金する、これらは全部、神と人との仲介役、架け橋の仕事です。

Story4:苦難への招きと回心

 16節を読んでみましょう。「わたしのためにどんなに」苦しまなければならないかを彼に示そう」(16節)と言われています。不思議な言葉です。イエス様は信仰的な英雄に成るためにとか、信仰的に完成した立派な人間になるためとか、良い人になるためにとか、もっと楽に生きるためにとか、人生に成功するためにとか、言っていません。イエス様は「どんなに苦しまなければならないかを示す」と語っています。苦しみへの招きです。こんなことを言ったら、みんな逃げてしまうでしょう。それは十字架の道を共に歩みましょうと言う招きです。十字架という苦難の道を受けることによってなお、新しい復活の出口へと繋がるのです。

 私は退院後妻と二人で「ローズンゲン」(日々のみ言葉)を読んで、祈ってから食事をします。病を得て言い知れない死の試練に会いました。しかしそこから命の重みを再び経験しました。聖書の一カ所一カ所に、一日一日励まされて、み言葉が心に滲みます。命は「日々」であることを思います。神の言葉は私たちを悔い改めに導きます。苦難を負う時に新しい世界が広がるのです。