礼拝メッセ―ジ 4/25『わたしもその中にいる』

わたしもその中にいる

マタイ18:15~18節

Story1:弱さを授かる

「大事を成そうとして

力を与えてほしいと神に求めたのに

神様に慎み深く従順であるようにと

弱さを授かった

より偉大なことができるように

健康を求めたのに

よりよきことができるようにと

病弱を与えられた

幸せになろうとして

富を求めたのに

賢明であるようにと

貧しさを授かった

世の人々の賞賛を得ようとして

権力を求めたのに

神の前にひざまずくようにと

弱さを授かった

人生を楽しく過ごそうと

あらゆるものを求めたのに

あらゆるものを喜べるようにと

命を授かった

求めたものは一つとして得ることはできなかったが、

願いはすべて聞き届けられた

神の意に添わぬ者であるにも関わらず

言葉では言表せない祈りが

すべてかなえられた

私はあらゆる人々の中で

最も豊かに祝福されたのだ」

これはニューヨークリハビリ研究所の壁にかかれている詩です。

成功するために強い力を与えてほしいと神に求めたのに、弱さを授かったのでがっかりした。偉大なことができるように健康を求めたのに神は病気を与えたので頭にきた。幸せになろうと富を求めたのに、いつまでたっても貧乏の連続だった。だから信仰生活はやめる。世の人々から賞賛を得ようとして我慢したのに 弱さばっかりで自暴自棄になった。人生を楽しめるようにと、あらゆるものを求めたのに、ただ命があるだけでつまらないので絶望した。わたしたちはそう思います。

しかしこの詩は感謝にあふれています。無力さから神への謙遜や服従を学んでいます。病弱から「主にあってより良いことが出来るように」と祈りを学んでいます。「貧しさ」から「賢明に生きる知恵」を学んでいます。「あらゆるものを得る」のではなく、「あらゆる環境を中で喜べる生き方」を学んでいます。求めたものは何一つ与えられなかったが、願いはすべてかなえられた。

 

Story2:つなぐこと、解く事

 1517節をみてみましょう。ここでは「教会〈エクレシア〉」に申し出ることが語られています。ご存じのように「エクレシア」は」神様から呼び出された人々の群れという意味です。教会とはどんなところでしょうか。十八節を読んでみましょう。エクレシアの本質が書かれています。「つなぐと解く」です。「つなぐ」は「人を鎖でつなぐ、ロバをつなぐ、獄につなぐ」などと使用されます。しっかりと結びつけると言う意味です。「解く」は「靴の紐を解く、牛やロバの紐を解く、死や苦しみから解かれる」などと使われています。自由にする、開放すると言った意味です。

ですから地上や教会でしっかりとイエス様に結ばれる人は、天上でもまたイエス様に結ばれる。地上や教会で解放された人は、天上や神の国や天国で解放された人となると言う意味です。

教会は天上と繋がっている共同体です。イエス様と固く結ばれて、神の国で解放され受け入れられていく共同体です。

教会は神の国の写し絵のようなものです。下に絵があってその上に紙を置きます。そして下の線にそって絵を写していくと下の絵が出来上がります。そんな関係です。

 

Story:神が成就する

 十八節以降を読んでみましょう。

原文は「自分たちの求めることについて地上で一致するなら」となっています。「一致すること」に重心が置かれています。一致して主にあって固く結ばれることが求められています。

また後半は「天の父が実現させて下さるであろう」となっています。天の父が主権、導き手、出来事の成就者です。

初めに詩を紹介しました。作者は「大きなことを成そうとして力を求めました。」しかし与えられたのは「弱さ」でした。そこから神への従順が体験できました。「偉大なことができるようにと健康を神に求めました」しかし与えられたのは「病弱でした」。しかしそこから「より良きことができるようにというに」という優しさを学びました。「賞賛されたいと思い権力を求めました」しかし神から与えられたのは「神の前に膝まずくという弱さ」でした。神様は磁石の+です。人が+になり強くなると反発し合います。人がマイナスになると互いに引き寄せ合います。神様は私たちが弱くなると私たちを神のもとへ引き寄せて下さるのです。そして一マヌエルになります。

 

Story:わたしもその中にいる

二十節を読んでみましょう。「二人または三人がわたしの名によって集まるところにはわたしもいるのである。」(二十節)とあります。ここで聖書が言いたいことは「わたしもその中にいる(インマヌエル)」ということです。交わりの中にキリストが、聖霊が、神ご自身が共にいるということです。

 

イエス様はこの教会の椅子に座って一緒に礼拝に参加しています。イエス様は私たちが賛美するのも、聖書を読むのも、話し合うのも今ここで聞いて下さっています。それは教会だけではなく、あなたの家庭にも、あなたが寝る時も、食べる時も、テレビを見ている時も一緒にいるのです。教会から出たらイエス様がいなくなったということではないのです。時代も、場所も、国も超えて一緒にいます。イエス・キリストはわたしたちと共におられるのです。「その中に」ではなく、原文は「只中に」です。「まさにこの交わりの中にいる」ということです。今この中に席を占めておられる。一緒に座っておられるのです。見えざる霊として一緒にいるのです。聖霊は身近におられます。