礼拝メッセージ 4/18『幸いなるかな』

幸いなるかなマタイによる福音書五章一~十二節

Story :貧しくて良し 

「家が貧しくて良かった 

 さみしい田舎でよかった  

 お母さんが病気でもよかった 

 いたわってあげてよかった 

 よろこんでくれてよかった 

 色盲で医者になれなくてよかった 

 牧師になってよかった 

 何もかもよかった」

 これは詩人、牧師であった河野 進という方の詩です。家が貧しい、病気になる、寂しい田舎の出である、これらは本当に幸せなことでしょうか。貧乏であれば幸福には遠いです。田舎であれば新しいファッションに出会うこともありません。母が病気なればやりたい事も出来ずお世話をするばかりです。色盲であれば成りたいものにもなれません。健康で強くて勉強が出来てお金があれば人気も出ます。人からも褒められます。弱さは受け入れられないのです。しかしこの詩には「これはこれ良かった」という肯定感があります。色々な失敗、不完全な性格、繰り返す自分の弱さ、病気や苦しみに会いつつも、「この人生はこれで良かったのだ」と言えているのです。人生のマイナスの価値と思われるものを受容し、単に成功するよりも一層深く学び、人生を肯定し、あらゆるものを受け入れていく強さがあるのです。

Story2:悲しむ人は・・

今日の個所は「八福の教え」と言われる有名な個所です。今日の個所で特徴的なのは「心の貧しい人(三節)、悲しむ人(四節)、義に飢え乾いている人(六節)、義のために迫害されている人(十節)、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられている人(十一節)は幸いである」と言われていることです。一見不幸な人間が幸福なのだとイエス様は語ります。本当にそうでしょうか。何故でしょうか。五:十二を見てみましょう。「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」にあります。神の言葉に立ち、神の言葉に信頼し生き抜いた預言者たちは、世の人びとから迫害、無理解、理想主義者、世間知らず、夢想家、世を知らない稚拙な人間として迫害されました。キリストの生涯もまたそのような人生でした。馬小屋で生まれた貧しい方、病気で苦しんでいるラザロに涙を流した人、正しいことを語ってファリサイ派や律法学者から迫害された人、十字架の上でののしられ、身に覚えのないことで迫害された方、十字架に上げられ裸にされ、鞭打たれ、ののしられ、悪口を言われ殺された失敗した宗教家でありました。神の御子はこの様にして苦しむ者の仲間となりました。そして神はキリストを復活させました。神はそのようにして悲しむ者を忘れることはないのです。悲しむ人をこそ神は愛するのです。

Story3:柔和な人は

 しかし別の言い方で聖書は幸いを語ります。「柔和な人(三節)、憐れみ深い人(七節)、心の清い人(八節)、平和を実現する人(九節)は幸いである」と言われています。柔和に生き、憐れみ深い心で人に接し、心が清く純粋な心で生きることは豊かなことです。また平和を実現するために働くことは本当に尊いことだと思います。今ミャンマーの人々のための祈祷化が持たれています。バプテスト同盟の方々が中心です。まことに小さな祈り会です。七歳の子どもがお父さんの腕の中で軍の流れ弾で亡くなりました。お父さんのことを思うと涙が出ます。貧しいお婆さんの一日分のお米の袋を軍の兵士が破って路上にばらまきました。それをお婆さんが路上に座り込んで、拾い集めている写真を見ました。少数民族の人の家が焼かれ、洞窟で生活しているお母さんと子どもの写真を見ました。涙が出て心が痛みます。この様な中で本当に助けを祈る必要があると思います。平和を実現する人は幸いという言葉が身に沁みます。小さな祈り会で無力なものです。しかしこの様な人は「幸いであり、地を受け継ぎ、憐れみを受け、神の子と呼ばれることを」忘れないようにしたいと思います。預言者たちも、実にバビロン捕囚の苦難・戦乱の中で神のヘセドを語り、柔和と謙遜を持って人々を教え導きました。そしてイエス様自身がまことに謙遜と柔和を持って、十字架の死に至るまで、神の道を示して歩まれた方でした。イエス様自身が山上の垂訓を十字架で成就された方でありました。

Story4:幸いなるかな

 今日の個所で特徴的なのは「幸いである」という言葉です。一節ごとに必ず「幸いだ」と八回宣言されます。十一節には「わたしのためにののしられ、迫害され、身の覚え覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(五:十一~十二)「ののしられる時はやり返し怒鳴ってやれ、怒りなさい!迫害されたら言い返しなさい!悪口を言われたら黙っていないで言い返してやりなさい」が常識です。未熟な教会でもこの様なことは常に起こります。報復が最善と学びます。しかしこれは聖書が語る「罪」の姿です。報復は罪です。

聖書は「喜びなさい。大いに喜びなさい。」と勧めます。さらに「喜びに生きる時に天からの報いがある」と言います。天の国、神の国、天国は神の喜びや神の栄光や神の愛がいっぱい詰まった場所です。これを自分の身に受けるのです。この「喜び」が迫害や無理解を超えさせてくれます。そしてわたしたちを前へ前と神の国を目指して進ませるのです。その時「怒り」は後へ後へ退いていきます。この喜びを生きるのが信仰生活です。共に神の国を目指して進んでいきましょう。神の国は近いのですから。