世の終わりまで主が共にマタイによる福音書二八章十六~二十節
Story 1:時代の変化 今日の個所は大宣教命令と呼ばれます。大変有名な個所です。のちほど教師就任式を行いますが、わたしたちの今日の教会の礼拝にふさわしいと思います。ある四十代のサイボウズというインターネットの社長が言っています。「人は最終学歴ではなく、最新学習歴が大切である」と言っています。学校で学んだことはそれを守って行けばどんな時でも大丈夫というものでありません。時代は激しく変化しています。その中で一度学んだものが五年十年と持つ時代ではありません。メインの職業を持っていても副業が選べる、性や障碍で差別せず、一定の割合で雇用する職場(クオタ制)、休暇の後に復職できる職場環境、再学習が可能な職場(リカレント教育)IT利用の更なる拡大(テレワークの拡大)、「俺なんか混んだ通勤電車で通ったんだ。二十四時間戦えますか。頑張れよ」という発想は若い人には通じないでしょう。宣教の在り方も変化していくでしょう。また商品を売る場合には商品知識がないと売ることができません。新しい職場で働くには新しい学びをしないと対応できません。教会も同じです。教会は人の心を扱いますから、心理学や人間関係学やグループダイナミックスを学ぶ必要があるでしょう。教師はどんな人でも学び続けることが大切です。
Story2:罪人を用いる弟子たちはイエス様のもとに集まりいつものように静かに、草の上に座り、この命令を聞きました。しかし「しかしひれ伏しつつ、疑う者もいた。」と書いています。(十七)ユダは「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と告白します。長老や律法学者は「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と言ってユダの自己責任にします。ユダは首をつって自殺します。(二十七:四)全員が全員立派な弟子ではない。最近前川喜平さんが語った「面従腹背」という言葉が流行しました。「顔は服従しているようであるが、腹の中では反発し軽蔑する、疑ってかかる」「表と裏が違うこと」ということです。これを聖書では「罪」といいます。聖書は人が罪人であることを徹底して記しています。わたしたちは罪人であることを忘れてはなりません。神は不完全な人間を用います。宣教師パウロは「自分が完全な者となったとは思っていない。」と罪人の自覚を書いています。罪人であるという深い自覚、使徒として召されたのは「一方的な神の恵み」として自覚することが、献身して行く根源なのです。「「自分は〇点だ」という出発点からイエス様は一緒に歩みだして下さる。
Story三:権能はキリストに 罪人の弟子たちに言いました。第一の言葉は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(十八節)です。一切の権威はキリストにあります。伝道者として選ぶのもキリスト、悔い改めに導くのもキリスト、罪を告白させるものキリスト、福音を語らせるのもキリストです。今日は教師就任式を行います。立てて下さるのはキリストご自身です。その任に当たらせるのもキリストご自身です。宣教のすべての源はキリストにあります。罪人を用いるのは神の本質です。ですから「父と子と聖霊の名によってバプテスマを施せ」とキリストは言います。父と子と聖霊の権威のもとで生きるようになるために勧めるのです。キリストによる召命が一切の根拠です。
Story四:弟子の働きとは 次にイエス様は三つの働きを弟子たちに告げます。第一の働きは「あなたがたは行ってすべての民を弟子にしなさい。」(十九節)師匠のキリストに学び続けるのがキリストの弟子です。古い言い方かも知れませんが、踊りの師匠と弟子、落語の師匠と弟子、お茶の師匠と弟子。お琴の師匠と弟子。相撲の師匠と弟子。お師匠さんに学ぶ、弟子は芸を盗んで学ぶのです。弟子は師匠から訓練されて弟子になります。弟子入りです。第二の働きは「彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」(十九節)です。バプテスマは得度式です。お坊さんになるために髪を剃って仏門に仕えることを約束します。髪は剃りませんが、心を清めてキリストに従う決心をします。バプテストは在家仏教のようなものです。いわば世に会って仏に仕えるお坊さん、尼僧です。第三の働きは「あなたがたに命じておいたことを守るように教えなさい」(二十節)です。ティーチングです。
1 知識・学問・技能などを相手に身につけさせるよう導く。教育する。教授する。「英語を教える」など。一般的には先生と呼ばれます。この役目も大切です。信徒も牧師も聖書について相互に共同で学び合います。学びに上下関係を持ち込むことは意味をなしません。
2 知っていることを相手に告げ知らせる。「花の名所を―・える」ことも教えるのです。体験や経験で見聞きしたことを伝えることです。これは「いわゆる教師」でなくてもできます。わかっただけのキリストを伝えることで充分です。
3 ものの道理や真実を相手に悟らせて導く。戒める。教訓を与える。「今回の事件が我々に―・えるところは多い」などです。これは悟らせて導く役目です。キリスト者は自分の信仰体験から生き方を伝えることができます。 そして最後に、「わたしはあなたと共にいる」という約束をイエス様は語ります。私が主を忘れても主は忘れない、私が主を見失っても主は私を見失わない、私が不信仰であっても主は信仰をもって私を見守る。神などいないというのはいつでも人間です。神のインマヌエルの中で宣教は始まります。インマヌエル!の事実を喜びつつ主を伝えて参りましょう