礼拝メッセージ 『十字架の上の神の子』3/28

十字架上の神の子2021328日 マタイ273256

 Story1:ラブラブから罵り合いへ

質問:「わたしの兄は、付き合いたてはラブラブだったのに、別れ際は罵り合って彼女とわかれました。どうしてこうなるのでしょうか。」

回答:「時として人は自分の選択を誤ります。誰でもそのようなことを経験するものです。自分が選んだ相手を最低の人間と思うこともあるし、選んだ自分がみじめに思え、自分が愚かにみえるものです。でも人は良く「大好きで最高~!」と言っていた自分の責任を棚上げし最終的に人のせいにしたいものです。別れた彼女に文句を言ってしまうのは、自分を否定されたと思うからです。しかし自分が間違っていた事は自分の中で修正すればいいし、他人に文句を言っても、何の解決にも成長にも繋がらないこともあります。自分と相手を分離して自分は自分なりに生きていくことが大切だと思います。」

 新聞に載っていた20代の方の、人生相談の記事です。皆さんはどう思いますか?互いに自分で選んだことが間違いだったことにむしゃくしゃして感情的に爆発してしまう。そしてののしりあうことになる。わたしたちはどうでしょうか。

Story2:「ののしるもの」

今日の聖書箇所はイエス様が十字架に付けられる個所です。ホサナと喜び迎えた民衆はののしる者になります。「そこを通りかかった人々は頭を振りながらイエスをののしって」(39)「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。とイエス様をあざけります。」(40) 「何、このトロイこと言ってるんだ、このカス」ってとこでしょう。また「律法学者、長老たち、祭司長たちも一緒になって」(41)、「イエスを侮辱して、他人は救ったが自分は救えない。十字架から降りて来い。そしたら信じてやろう。神の御心ならば今すぐ救ってもらえ。」(4143)と侮辱します。 十字架に付けられた強盗達も同じであったと書いています。(44 彼らはイエス様に裏切られたのです。癒され、励まされ、希望を与えると期待した人々はがっかりしたのでしょう。期待外れでした。人は常に自分の人生、物事、人を、粘土細工のように自分の思うとおりに動かしたい根深い欲求を持ちます。しかし思いとおりにならないと、人を卑しめて自分を一段上に置き優位に立とうとします。それは人間の罪(本性)です。十字架は罪の現れです。

Story3:イエス様の死

 イエス様の十字架について聖書は書き続けます。十字架が立った場所は「ゴルゴタ(骸骨)」(33)と呼ばれる場所で処場です。兵士は「苦いぶどう酒」を突き付けます。それは痛みをやわらげる薬のような役目をしますが、イエス様はなめただけでした。(34) また「くじを引いて服を分け合います。」(35)。これはキリストを裸でさらすことを意味します。37節では、十字架の上に「ユダヤ人の王」と書いた札を付けました。これは兵士たちの「からかいネタ」です。イエスをあざけった表現です。また「二人の強盗」も一緒に十字架に付けられます。イエス様は罪人(ざいにん)となります。(44

人は栄誉ある死、功名を立てた立派な死を願います。立派な仕事を見事に果たして亡くなる、多くの人に愛される良き人であったと尊敬される死を願います。人は英雄的な死、立派な美しい死を希望し、そのような葬儀や最期を迎えたいと思います。そのような死でなければ、敗北の死は余りにも惨めと思えるからでしょう。最後は立派に送ってあげたいのです。しかしイエス様の死は、そのような尊厳ある、栄誉の死ではありませんでした。イエス様の十字架は「英雄的な死」ではありません。無残な死です。

Story4:死者の復活

 それではイエス様の死は惨めな死で終わるのでしょうか。聖書は希望を語ります。マタイ福音書はイエス様の死についてルカやマルコにはない解釈を加えています。それは「その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂け、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そしてイエスの復活の後、聖なる墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(275153)という理解です。

これは現代人の我々には簡単には、信じられない表現です。この部分は旧約聖書エゼキエル書3712節からの引用であると言われます。マタイ福音書はユダヤ教の強い影響を受けて書かれたと神学者たちは考えています。旧約聖書には苦難や受難、苦しみや苦難の死の後に、必ず復活が起こり、新しい命によみがえるという思想があります。時として過激なユダヤ主義者は復活を夢見て、殉教の死へとかりたて立てもしました。マタイは「殉教の死を煽る思想家」ではありません。しかし「神の御心を生きた」苦難の後には復活がおこることを前提にしています。マタイの「復活」の表現は、当時のマタイ福音書を読んだ人々には理解しやすかったのです。53節「イエスの復活の後、墓からよみがえり、神殿に入る」とは、苦難の後に神の国へ入る、神の栄光に入ると言った信仰理解を表現しています。神の意志を行う者は、苦難を受け、必ず新しい命を得て、神の国へ迎えられるという希望を表現しています。神は「苦難を捨ておくことはない」のです。日本人は普通、「働いて働いて、生きて生きて、死んで一巻の終わり」と考え、死で終わる虚無思想です。しかし聖書の考え方は違います。神の意志に服従する苦難、ゲッセマネの祈りの「御心がありますように」という「服従の苦難の祈り」は、復活、永遠の命、神の国、輝く天の御国への召し、神の栄光等と結ばれているのです。聖書は単純な「栄誉の死」の死を求めてはいません。「神の言葉に服従する苦難」を求めているのです。この見極めをつけることは現代において大変大切です。この様な見極めの利いた信仰を与えられつつ世の苦難を負うものでありたいと思います。キリストの十字架を模範とすることが我々の務めなのです。