礼拝メッセージ 3/21 『共に目を覚まして』

共に目を覚まして2021321日 マタイ36‐46

 

Story 1:祈れない時の祈り「イエス様、私は十分に祈ることができません。どう祈ったらよいか分かりません。祈りに力がなく、祈っても平安がありません。何か祈りが空しいのです。祈っても慰めもありません。けれども主よ、あなたはいつも祈っていなさいとおっしゃいました。 父なる神はわが子の祈りをないがしろにされないとおっしゃいました。 私のうちに力がなくても、豊かな力はあなたのうちにあります。 今すぐに答えがなくても、あなたに信頼し、祈り続けられますように。あなたの力と恵みが弱い私を助け、あなたの力をいただきながら歩んでいくことができますように。イエス様の御名によって祈ります。」

これはある方の祈りの一節です。わたしたちはときおり、祈っても味気ない、喜びのない満たされない祈りや信仰の世界を経験します。心から祈れない、空しい経験をします。皆さんはいかがですか?

今日は神の優しい言葉や慰めの言葉が返ってくることない体験をしたイエス様、ゲッセマネの祈りの個所を一緒に読んでみましょう。

Story2:死ぬばかりに  ゲッセマネの祈りは「悲しみもだえる」祈り(37)、「死ぬばかりに悲しい」(38)祈り、「うつ伏せになって祈る」(39)祈り、「この杯(十字架)を過ぎ去らせてほしい」(39)という悲しみの祈りです。しかも神の声や神の応答がまったくありません。ゲッセマネでの祈りの特徴は「神の応答、返事、答え」が全くないことです。「神様は安心しなさい。一緒にいるよ」という言葉をかけません。人から捨てられ、弟子たちは眠りこけ、律法学者やファリサイ人から無視されたキリストは、十字架と死の恐怖の中で、神の沈黙の世界で、祈りました。寄る辺なき、すがるもの無き、救い無き、究極の不安の祈りでした。この祈りから十字架の道は始まります。わたしたちはときおりこの様な祈り経験するのではないでしょうか。  コロナウィルスの時代にあってその終着点は見えません。この「疫病」がどのように広がるのか、いつ自分や家族という身近な世界に降りかかってくるのかおびえます。経済はどうなるのか。教会や連盟諸教会はどうなるのか、不安の中で過ごしています。その答えは神からは明確に示されず生きているのではないでしょうか。ウィルスの恐怖が私たちの前に立ちふさがっているように思えます。そのもとで私たちは祈ります。

Story3:御心のままに

  さらにゲッセマネの祈りについて読んでいってみましょう。イエス・キリストの祈りは「わたしの願いどおりではなく、御心がなりますように。」(39)、「わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますよう。」(42)という祈りです。同じ祈りは「御国が来ますように。御心が行われますよう。」(主の祈り/610)という主の祈りでも祈られています。神からの応答ない中で、「御心がなりますように」と祈るのです。答えが聞こえない中で、神に身を委ねる言葉です。一般にわたしたちは、保証のない、担保のないものは嫌うものです。お金が返ってくる保障があれば、お金を貸すでしょう。神の言葉がない中で、神の御心が成るようにと祈ることは無謀のように見えます。しかしキリストは見えざる主に委ね、御心が成るようにと身を任せます。信頼を持っているのです。担保や保証が見えない中で、主に信頼する信仰、身を任せる信仰を、イエス様は告白するのです。神ご自身は完全に身を委ねることができる「言葉」です。イエス様はそこに信頼します。

Story4:十字架への道

  さらに「御心がなりますように」という「委ねる」祈りにつて黙想してみましょう。「御心がなる」とは「自分が十字架につけられる」ということを含んでいます。「御心がなるように」とは裏切られ(48)、捨てられ(43)、あざけられ、鞭打たれ、疎外され、不利な裁判を受け、十字架に付けられ、罪人となり、捨てられる苦難の道をいくことです。一見それは損な道、何の利にもならないような道、苦しみを自ら負う道、人の罪の代価を払う道、他者の罪を贖う道です。「御心が成る」とは「イエス様自身が捨てられ、十字架に付けられる道」を選ぶことを意味しています。イエス様はこの道を願います。イエス様の祈りはこの道が成るようにという祈りです。自分が一人勝ちする成功する道、自分だけが利益を受ける道ではありませんでした。担保や保証があって生きる道ではありません。 わたしはドイツのメルケル首相の「わたしの信仰」(教団出版局)という本を読みました。彼女はルター派の牧師の家庭にうまれ、聖書信仰を堅実に持ち、色々なキリスト教の集会で聖書の話をし、現代の問題に取り組んでいます。彼女は女性の権利の問題、難民の問題、ナチスの否定、脱原発の視点、キリスト教の問題点などに直面しています。 この本を読んで、政治家が様々な批判、非難を浴びながら、信仰と政治的信念を貫いていくことがいかに大変な道であるか良く分かります。これらは「苦しみや非難」を受ける道、「解決するには十字架を負うこと」なしには、解決できない道です。それは厳しい試練と忍耐の道「ドロローサ:十字架の道」です。しかしまた批判や裏切りや権謀術数の中で、神の真理や聖書が示す正義は、それでも豊かに成っていくものだという希望と確信を与えてくれます。最後にイエス様は次のように言われます。「時は近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいて来た。」(45) イエス・キリストはわたしたちに、あなたに、そして教会の礼拝に集うわたしたちに迫ります。十字架の道を共に歩みましょうと。共に十字架への道を進みましょうと。あなたの応答をイエスは求めているのです。あなたはどう答えるでしょうか。