礼拝メッセージ 3/14 『小さいの者一人に』

Story1:炊き出しにならぶキリスト

 「炊き出しに並ぶキリスト」という絵があります。白黒の木版画です。イエス様は炊き出しの列に並び打ちひしがれた姿で貧しい人々の列に加えられています。貧しき者の一人として、食事をもらう列の中にたたずんでいます。イエス様は炊き出しをする側ではなく、炊き出しを待っており一杯の食を待つホームレスの人々の側にいます。イエス様は貧しき者の一人となられたことを表現しています。作者はフレデリック・アイヘンバークでドイツの芸術家です。彼はユダヤ人の家庭の子どもとして生まれ1933年ドイツを離れ、ナチス政治から逃れてアメリカに亡命しました。イエス様は貧しい人々に憐れみの心を持って仕えた人でありました。しかしイエス様は貧しい人々と同じ姿、弱り果てている人と同じ在り方で生きた方です。弱り果てている人を「対象とする」のではなく、「罪人の一人に数えられた者」」です。見捨てられた者の一人になり、そのような人々と同じ姿になりました。

Story2貧しきキリスト

 さて今日の物語は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのである。」(40)という言葉で終わります。ここで大切なことは「最も小さい者」=「私(キリスト)」であるということです。「最も小さい者(地の民)」と言われた人々を「自分の兄弟(姉妹)」であると呼びます。キリストは「最も小さい者」の一人であり、仲間でした。貧しい人々と自分を同一視し同じ立場に立ちます。 救い主イエス・キリストは貧しい者となったのです。多く人を励ます時、「おまえはこんなふうに愚かだから、こんな結果なんだ。だからその愚かさに気づき、もっと世間並みに頑張れ」という人がいます。これは上から目線です。しかしイエス様はこのような戒めや道徳律を語りません。「愚かな者自身」の立場に立ったのです。救い主は愚かと思える人と共に立ってそこから、生き始めるのです。同じ地平に立ってくださり、共に歩んでくださるのです。

 Story3:ヤングケアラー

 20199月に神戸市で22歳の幼稚園教諭が、介護していた90歳の認知症の祖母を殺害する事件が起こりました。彼女は一生懸命祖母を介護しました。祖母を朝でも夜でもトイレに連れて行き、シャワーで体を洗い、深夜に散歩に連れて行くなど介護のお世話をしていました。しかし祖母からは「あんたがいるから人生が楽しくない」とののしられることもありました。勤務していた幼稚園にも馴染めず、上司や同僚からも怒られることがあり、睡眠不足で体調が万全でないこともあったそうです。このように介護をしている小学生、中学生、高校生、20代前の人々を「ヤングケアラー(若年の介護者)」と呼ぶそうです。藤沢市の調査では、このような子どもたちは遅刻、早退、欠席、忘れ物、宿題を忘れる、学力が振るわない、自分の時間を持つことができない、進路にも影響するなどの課題が多いと言われています。 このような問題が起こる時代の中で「小さい者の一人にしたのは私にした」という聖書の言葉はどのような意味や価値を持つのでしょう。わたしたちはどのような生き方を求められているでしょうか。キリストの教会として何を果たすべきかを考えさせられます。

Story4:2種類の奉仕者

今日の個所をさらに詳しく見て見ましょう。ここには2種類の人々がいます。第一の人は「正しい人」「用意されちる国を受け継ぐ人」(37)であり、第二の人は「悪魔の手下」「永遠の火の中に入る人」(41)です。

第二に、しかし「行った行為」自体に変わりがあるわけではありません。前者も後者も「のどが渇いている時に水を飲ませ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ね、裸の時に着せ」ています。(3544)彼らの行為に違いがあるわけではありません。違うところはどこなのでしょうか。第三に、さらに聖書を読んでみると違いが記されています。前者は「いつ飢えている時に食べさせ、裸の時に着せ、宿を貸したでしょうか。」(37)と答え、行なった行動のことについては無意識です。後者は「お世話をしなかったでしょうか」(44)と応答します。「わたしたちは行動しました。何を言っているんですか、イエス様」という感じです。自信を持っているように見えます。彼らは彼らなりに立派に行いを果たして生きた人として、もっと評価されても良いと思っています。

Story5:審判の基準

さらに聖書を読んでみると、少し別の違いが見えて来ます。前者には「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのはわたしにしたのである。」(40と語ります。後者には「この最も小さい者にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことである。」45)と応えています。イエス・キリスト自身と「飲むものがなく、牢獄に捕らえられ、着るものもなく、病んでいる人々」を同一だと見ているかどうかという点です。

貧しい人々の中にキリストがおられることが見えているかどうかが審判の基準です。貧しい者の中にキリストが見えているかどうかです。これはファリサイ派や律法学者に対する批判でもあります。キリストを認めずに、彼らは行為主義に陥っていたからです。この物語は23章の厳しい律法学者やファリサイ派批判に共通するものがあります。 聖書の救いは「人を助ける行為と共に、キリスト告白」にあります。キリストが罪人を救うために、わたしたちと同じ罪人の姿に成られたということの中にあるのです。この基本を土台にしながら教会は形成されます。この基本を原点にしながら信仰生活を続けて参りましょう。