柔和なお方 マタイ21章1-11節
Story1:ギャロット先生
鹿児島の田舎育ち私が、柔和な人格を経験したのは、ギャロット宣教師夫妻を通してでした。キリスト者になったばかりの私は、バプテスマを施して下さった鍋倉勲牧師と入院中のギャロット先生をお見舞いに行きました。先生は重篤な病を得て、80歳を超えておられ、教師としての働きを終えて帰国が近い頃でした。お見舞いに行くと白いベッドの上に起
き上がり体調の具合を少し話し、3人で一緒にお祈りをしました。先生の声は枯れて、ささやかな声でした。祈りの
中で「命を守ってくださり感謝します。」と日本語で祈られました。
私にとって永遠に心に残るものでした。離日を前にした最後の祈りでした。先生夫妻はいつも礼拝に一緒に並んで座り参加しておられました。夫妻の丁寧な眼差しと優しい対応は何気ない言葉でしたが平安を与え、丁寧なお辞儀の仕方が人への配慮を示すもので、あんなお辞儀が丁寧にできるよう
になりたいと思ったものです。幾多の言い知れない重責を負い闘いながら生きて来られた先生の弱さと覚悟の中から生まれたのだろうと思ったものです。
Story2:柔和な王
聖書はイエス様のことを「柔和な方」(21:3)と断定しています。軍馬ではなく、ろばに乗って来る方であり、軍馬の武力ではなく「十字架の弱さ」によって平和をもたらす方と告白しています。
現代は対立を煽る時代です。やったらやりかえす、やられる前に取りつぶす、服従しない者には抑圧する、抑止力にはさらに強力な抑止力を保持する、黙っていないで言い返す、やられたら代償をとる・・・・そんな攻撃的な時代にいきているのではないでしょうか。
イエス様の戦い方は「ののしられてものおしりかえさず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになった」(Ⅰペテロ2:22)という方法で「抑圧にめげない」強い戦いが、内に含まれている戦い方であったのです。
この「柔和」を「抑圧にめげない」と本田哲郎神父は訳しています。「抑圧にめげない」は、闘争的に抑圧してくる者に屈しないという感じです。そこには強さがあります。「ただ踏まれるだけの何も抵抗しない柔和」とは違い、神の審判に人と自分を任せ、愛と真理を貫徹する。報復は神に任せる強い生き方です。
Story3:柔和と強さ
イエス様の「柔和さ」はどこに源を持っているのでしょうか。イエス様の「柔和、穏やかさの芯」はどこにあるのでしょうか。エルサレム入場はイエス様にとって十字架への道行きの始まりでもありました。イエス様の厳しい神殿礼拝批
判、ファリサイ派や律法学者への批判は、恨みを買うまでになりました。
しかしこの行動は「神への服従の道」でもありました。イエス様はゲッセマネの祈りにも現されているように、「神の御心を行うこと」を第一の思いとされたのです。イエス様のこの「神への信仰」が「柔和さの中心」にありました。神の御心を行うためには、「貧しい、不幸な、哀れな、へりくだった、柔和な道」(聖書教育参照)を選ばれたのです。つまりは「十字架の死(シュタウロス:殺害)に至るまで従順であった」のです。この神への十字架に至るまでの従順がイエス様の「柔和の芯」になっていたのです。それは単に世間体を気にした人間的柔和、強い者へ巻かれるための柔和、商売がうまくいくための柔和と言ったものとは違う種類の「柔和」
です。それは「神の真理と愛と義」を見定めた「柔和」と言っても良いのです。
Story4:歓待する
ちょうど「聖書教育」の表紙は「エルサレム入場」の絵です。藤沢バプテスト教会の三浦あやさんが書いて下さいました。緻密に、しかも子どもたちにも親しみやすい表紙です。
救いを求める人々が歓迎する一方で、高いところから見下ろしている律法学者やファリサイ人の姿も描かれて
います。歓迎する人、キリストを殺害しようとたくらんでいる人、まったく興味のない人など多くの人々の中をイエス様は入って来られました。殺害と歓迎の入り交ざった中にイエス様は入って来られました。アメリカ大統領が就任式後、ペンシルベニア通りを護衛に守られて歩く場面を見ますが、イエス様もいつ殺害されるかわからない緊張感があったと想像します。ある神学者は「キリスト教信仰とは歓待である」と言っています。イエス様の生き方を「歓待する」。そして
「神に歓待されている自分」を、歓待する。また教会員同士互いに「歓待する」。自分には不利益と思える人をもイ
エス様のように「歓待する」。イエス様が「歓待」して下さったように、私たちも「まず第一に、歓待する者」でありたいと思います。あなたは神様を歓待していますか?神に愛
されている自分を歓待できていすか?教会員同士歓待しあっているでしょうか。夫や妻や孫たちを喜んで迎え入れ、心に歓待しているでしょうか。「こうあったら歓迎する」とか「こうしたら歓迎して受け入れる」と条件を付け
ていないでしょうか。無条件の愛で「歓待」して下さる柔
和な主に習って、無条件に自己や人々を歓待していきたいと祈りましょう。