礼拝メッセージ 2/21 「自分の十字架を背負って」

自分の十字架を背負って

マタイ16:13―20節

Story1:ミャンマーへの祈り

先週金曜日、日本キリスト教協議会(NCC)の呼びかけで「ミャンマーのために祈る」祈り会がZoomを使って行われました。ミャンマーからアメリカンバプテスト同盟のミャンマー人牧師が報告をして下さいました。参加者は58名でした。連盟からは国分バプテスト教会(鹿児島県)のミャンマーから来ておられるマウマウタン牧師も参加くださいました。マウマウタンさんのお父さんはミャンマーで牧師をしておられました。世界バプテスト連盟(BWA)世界大会がハワイで行われた際に、お父さんやミャンマーバプテスト連盟の皆さんとお会いでき情報交換をした縁もあります。ミャンマーの少数民族のバプテストの人々のことも聞

いておりました。今回のクーデターでもバプテストの方々が反対運動に参加しているため、バプテストのクリスチャンも逮捕拘留されているとのことです。またミャンマーバプテスト連盟理事会は軍事政権に対する反対声明を出しており、

その文章は「クリスチャン新聞」にも日本語版が掲載されました。祈り会の最後には、平和的に抗議をしめすために鍋をたたいて終わりました。祈り続けたいと思います。

Story2:何者というか?

16:13-16節には、弟子たちとイエス様の対話が出てきます。当時イエス様のことを色々の名で呼びました。ある人は「バプテスマのヨハネ」、ある人は「預言者エリヤ」、ある人は「預言者エレミヤだ」と呼ぶ人もいました。しかしペテロの告白は違っています。彼は「メシア、生ける神の子」(16:16)と告白しました。

「エリヤ、バプテスマのヨハネ、エレミヤ、預言者」と呼ぶ呼び方と「メシア、生ける神の子」という呼び方には大きな違いがあります。前者は神の使命を与らえられた「人間」ですが、後者は「救い主、その方自身」であり、「神の本質を啓示する神、その方自身」であるという意味があります。イエス・キリストは「歴史上の人間」のみではなく、「神の姿を啓示された神その者」なのです。この告白は、ローマ皇帝(日本流にいえば現人神天皇)は「神ではない」という告白(天皇礼拝の拒否)をも含んでいました。

「救い主/神」は「国家の将軍」でもなく、「国家の大統領」でもなく、「国家の偉い人」「天皇」でもありません。あなたは「イエス様」を何と心得、何と告白しているいでしょうか。そのことを聖書は問い、その応答を聖書は求めています。

 

Story3;岩の上に教会

イエス様を「メシア、生ける神の子」と告白したペテロに対して、イエス様は幾つかの応答をします。第一に「あなたにこのことを現したのは天の父である」と語ります。イエス・キリストが「メシア・神の子」であるということを告白させるのは「神」ご自身です。神の啓示や神の言葉を受けてこの告白は起こります。人の知恵や知識の限界を超えた世界、神の側から主告白は起こるのです。人の

業ではないのです。第二に「この岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない」(18)と語ります。

「岩」とは「ペテロの信仰告白」です。「神ご自身の聖霊を受けてイエスはメシア・神の子である」という告白の上に「教会は建てられる」のです。この言葉は教会生活や信仰生活、キリスト者の立場、教会論などを「しぼりにしぼって、煎じ詰めた表現」です。教会は楽しみ、交わり、会食、良き友人になること、奉仕の働きなども必要でしょう。これらの出来事の根本/原点を煎じ詰めた根底は「キリストを神の子」と告白することがあります。この告白はクーデターや迫害、仕事や家族問題、病気やお金の問題や苦し

みで、「もみ殻のように」吹き飛ばされがちです。しっかりこの「告白に立つこと」が求められているのが現代です。堅実な告白を日々求め続けましょう。

Story4:天の国の鍵

この神の導きによってなされる「信仰告白」は「天上の出来事」ともつながっています。イエス様は語ります。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる」(19)と。

ここで「つなぐ」とは「結びつけること」です。「この地上で神の言葉と人の生活や行動を深く結びつけること」です。また「解く」とは「解放すること」です。「人々を世の罪や抑圧から解放し、自由にすること」です。この「結びつけること」と「解くこと」は地上でも天上でも行われます。このように「神の言葉につながれること」そしてますます「解放され、自由になる

こと」が「天国の鍵」を与えられることなのです。今回のミャンマーのクーデターやトランプ大統領の政治姿勢、森会長の

発言、連盟の機構改革などを見ながら、人はどんな政治体制、どんな文化形態、社会主義、資本主義体制であっても、限界があることを思わされます。人の世は、文化的な限界、政治的限界、経済制度的限界、差別的限界等どんな政治的体制でも、限界を持ちます。ですから人が作る体制や制度について完全を求めることは出来ません。私たちは自分に与えられた十字架を負いつつ、「天上の自由」を求め続けて、世と人間の限界の中で「キリストの自由」を生き続けことが求められているのです。「陰府(読み)の力もこれに打

ち勝つことのできない」神の知恵と言葉に完全に信頼しましょう。神の与える自由をもって世界を見つつ、現実の世を生きていきたいと思います。あなたの住む世界にキリストの自由と平和を形成していきましょう。