礼拝メッセージ 2/7「落ちる雀とともに」

 

    落ちる雀と共に

 

Story 1:「ペスト」

 コロナウィルスはとどまることを知らず世界中に広がっています。これほど科学が発達し、人間の知識と経済力は、歴史上最も発達したはずなのに、私たちはウィルスに命を脅かされています。

 カミュという小説家が1957年に「ペスト」という作品を書きました。彼はこの作品でノーベル賞を受けました。

舞台は1940年代のアルジェリアの町・オランと設定されています。ペストの流行で町はロックダウンされます。登場人物は多様で、医者は懸命に治療にあたります。新聞記者は町の政府が正しい情報を出しているか検証します。たまたまオランにいた旅行者はフランスに残してきた恋人に会うために、大金を使ってこの街を何とか脱出しようとします。子どもたちは次々と死んでいきます。

ぺヌルーというイエズス会の神父も登場します。人々は「神はなぜこのような悲惨なペストを引き起こすのか。神など存在しない。」と問いかけます。ぺヌルー神父は「神は人間に厳しい罰を与えているのだ。人間はお金や財産や日常に振り回され、自分に執着し、神のことなど二の次になっている。今こそあなたがたはその罪を悔い改めて神の前にひざまずき、改心をするように。」と人々に迫ります。この言葉を信じ、悔い改める人々も出てきます。しかしペストはさらに広がり、罪のない子供たち、ペストの治療に献身的に働いた医者たちが死に、町の上流社会の人々は食料を確保して生き延び、貧しい人々が次々と死んでいきます。町には疫病から来る不平等感や不条理感や格差が広がっていきます。

この様な中で神父ペヌルーは次のように語ります。「神父として長く生活してきたが、実は神の御心がわかる時とわからない時がある。愛の神がなぜこのような悲惨な出来事を引き起こすのか、実は良くわらからい。しかしそれは神に不信仰になっているということではない。神のなすこが理解できなとしても、その意味を問いつつ私は神の前に立つ。わからいが神をなお信頼する。みなさん!わたしたちは神の御心を理解できなくとも、神のへの信頼を持って神の前に立ち続けよう。」と、以前とは違った信仰を語るのです。

 ペストの終息は突然起こり、作者カミュは「ペストは再び到来し、幸福と不幸とを再び人間に問いかける」と最後に語ります。

 

Story2:信仰を考える

 ぺヌルー神父の最初の説教は一般に「天刑論」と言われます。自分に自信をもって神をも畏れなくなった人間に対して罰を与えているのだ、と考えます。この様な考えはイスラム教、仏教、キリスト教などあらゆる宗教に存在します。人間の「業(ごう)」に対する刑罰とする考えです。内村鑑三は関東大震災を「天刑」と考えました。

 ぺヌルー神父の二番目の説教は実存的説教と言われます。つまり「神ご自身をわかりきった者・自明の者」として考えません。神はすぐに人間には理解できない、不可思議な方、人間が極めることができない神秘の方として考えます。人は神の「不可思議・不可解さ」に触れつつ、少しずつ神を知っていくのです。

上記の「実存」とは「現実存在」の意味で、人はなぜ生まれたのか、なぜ生きるのかわからないまま、世に放り出された者として生き始め、自分で決断的にその意味と価値を選び取らなければならい存在であると考えます。人の主体性、個人性はここから始まるのです。また単に教会が持っている「信仰告白」を暗記し、繰り返すのみでは信仰にはならないと考えるのです。神に問いつつ神を知り、神の神秘を知っていくのです。

Story3落ちる雀と共に

 天地万物を創造した神は、コロナウィルスを創造したのでしょうか。愛の神と言われる聖書の神は、人々を苦しみと死の中に落とそうとしているのでしょうか。愛の神はウィルスが広がる世界のどこに居るのでしょうか。

 「だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:29)という聖書の言葉にその意味が隠されています。ここで「父のお許しがなければ」という言葉はギリシャ語原典にはありません。原典では「父と離れることなく落ちることはない」となっています。雀の値段は当時一番安いもので、今で言えば150円くらいと言われます。日本でも「雀の涙」というように、価値のないもののたとえに使われました。

 雀のように価値のないものと共に神様は落ちてくださるというのです。私たちは自分を無価値に思う時があり、自分の小ささ、情けなさ、無力さ、罪深さに落ちることがあります。そのような無価値な者と共に落ちるのが、神です。キリストは十字架で無力な死に方をしました。しかしこのキリストと共に神はおられるのです。コロナで無力にされ、人生を全うすることが出来なかった人々と共におられるのです。

私は昨年末大きな病を経験し、40日40夜の入院生活をしました。点滴を受けながら、病院の中に響く痛みに苦しむ患者さんの大きなうめき声を聞きながら眠れぬ夜を過ごしました。命の終わりを思うこともありました。しかし無力にベッドに横たわる私とともに主はいてくださるということを思う時、深い平安に満たされました。キリストが十字架、鞭打ちによって傷を受け、笑い者となり、無力な者とされた姿を思い、私の手術の傷と重なる思いがして、キリストが共におられることを「傷と無力さ」を通して実感したのです。

 皆さん!コロナの中で苦闘する私たちの苦しみを共に十字架の主は生きてくださるのです。主は一羽の価値無き雀と共に、コロナで苦難に会う私たちの側に共にいてくださるのです。主はそのようにして共にあなたと共にあるのです。