礼拝メッセージ 1/31 [平和があるように]

平和があるように

マタイ9章35節―10章15節

Story 1:沖縄の声

 皆さんも、今年も年賀状を受け取られたことと思います。年に一度ではあっても互いの安否を確認し、子どもたちや孫たちや古い友人たちの成長や近況を確認できることは嬉しいことです。

 今年一番印象に残った年賀状は、沖縄で宣教活動を行っている岡田有右、富美子牧師夫妻からの年賀状でした。

その文面は以下のようなものでした。

「『沖縄のこの25年間の犠牲。何万という人が死んでいて、沖縄はどうしたらいいのか。・・・この沖縄人の涙をわかるのか。』50年前、コザで暴動が起った時、ある青年が叫んだ叫び。今遺骨が眠る南部の土砂を辺野古新基地の埋め立てに使うという・・・。『この沖縄人の涙がわかるのか』わたしたちの耳にこの声は届いているだろうか。」(原文そのまま)という年賀状の言葉でした。

 沖縄の人々は政治、軍事、経済などあらゆる面で、打ち捨てられ、放り出され、命の保障、病の保障、人権の保障もなく、本土の砦として、打ち捨てられていき、何の力なき民衆は人権を失いました。まさに「飼うものない」羊とは沖縄の人々のことではないかと思います。

Story2:底辺へ

 イエス様は町々村々を歩き回りました。彼らが出会ったのは「飼い主のいない羊のように弱りはてた人々」(9:37)でした。飼い主は人々を見捨てており、弱り果てようが、生活に困ろうが、飼い主にはすでに興味のないことでした。飼い主はもはや「人々を見て見ぬふりをする」人々となっていました。関われば自分を犠牲にすることとなり、自分の生活自体が危うくなるからでしょう。捨てられた民は「自己責任」で生きることが求められたのです。

ある神学者はこの物語の伝承の担い手を「放浪の過激主義者」と呼び、貧しい人々を助けるキリストの弟子たちであったと言っています。市民権運動家・ノーベル平和賞を受けたM・Lキング牧師のような働き人々であったと言えるでしょう。

 弟子たちが命じられたのは、「弱り果てている人」「打ちひしがれている人」「重い皮膚病の人」「悪霊につかれた人」「イスラエルの家の失われた羊」などです。 

社会の底辺で生きている人々に目が向いています。自立した中間市民層でもなく、律法学者やファリサイ人、政治家たちや王ではないのです。「無きに等しい人々、貧しき最底辺の民衆」であったと言えるでしょう。

Story3:憐れみ

イエス様は「打ちひしがれて」「弱り果てて」いる人々を「深く憐れみ」ました。この憐れむは原典では「スプラングゾマイ」で「内臓やはらわた」を意味します。内臓にキリリと痛みが走るほどに悲しまれたのです。今給黎真由美牧師は、この語を旧約聖書までさかのぼり、その意味を説明しています。「ヘブル語ではラハミームで子宮、母体を意味する。子宮は人体の中でただ一つ他者のために存在するものです。他の人間の命を育み、相手を自分の体内の奥深くに受け入れ、自分の血と肉、命までも分け与えるのです。」と説明しています。

他者の痛みに関わることを控えがちな現代の私たち、あなたの責任であなたのことは解決しなさい(自己責任論)で解決する現代の私たちとは違い、「他者の貧しさ・弱さ」を胎内に受け入れ、深い交わりや関りを自ら形成していく「憐れみ」なのです。

岡田先生夫妻が、沖縄の人々の痛みに共感し、警察官という職業を捨てて、献身して沖縄に赴任なさっている姿と重なります。キリストや弟子たちの憐れみ、岡田先生夫妻の生き方は私たちに、伝道とは何かを問いかけているように思います。

Story4:「収穫」とは

 このような「相手を自分の体内の奥深くに受け入れ、血と肉、命までも分け与えること」は、やがて十字架の愛に示されました。この十字架の愛に生きることを、「収穫」と呼んでいるのです。収穫とは単に教会員になってくれる人が大勢起こること、単に教会が栄えることが成就することを言っているのではないのです。イエス様自身が「深い憐れみ」の方であり、私たちをそのように愛して下さることを知り、キリストと共に生き始めることを言うのです。

 キリストと共に生きること、底辺の人々と共に生きること、「打ちひしがれた者と共に生きること」に専心し、献身していく人々を、主自身が送って下さろうとしておられるのです。それは人間が送ろうとしているのではないのです。主ご自身が送られる主体です。ですから「そのような働き人を送ってもらうように、祈りさない。」といわれるのです。派遣するのは神であり、人ではありません。

 私たちは主に祈り求める必要があります。祈り会で、個人のディノーションで、礼拝で、自宅で、教会員と、バプテストの仲間や超教派の同信の友と、常に、絶えず、生涯にわたって祈り続けましょう。