礼拝メッセージ 1/17 『律法の成就』

律法の成就

Story 10分前に

 子ども頃の家庭での躾は大変大切な者です。小学生の頃母は必ず「ちり紙、ハンカチは持ちましたか。」と尋ねました。60歳を超えた今でも、心に響きます。

また中学生になると、「約束した時間の10分前には、約束の場所に行って、待つようにしなさい。相手を待たせるものではありません。」とよく言われました。それは「大人の流儀です。」と言われましたが、何が言いたいのかその意味は理解できませんでした。しかし今でも時間前には約束の場所に着くのが習い性になっています。

時間を守ることは単純な「律法」ですが、「時間前に行くこと」は「人への配慮であり、愛情である」と思います。律法は守れば良いだけではなく、その中に配慮や愛情が含まれてこそ、律法は全うすることが出来るということです。

「時間を守ること」は卵の殻のようなもので大切なものです。しかし「卵の黄身」をも守ります。「中身の大切さ」はその人の人格や愛情や人間関係の作り方の基本のように思えます。「大人の流儀」とはそのような事です。

Story2:「罪人」とは

イエス様の生きた時代、宗教家は子どもたちをシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で教え、時には人生相談にものりましたし、家庭などの訴訟にもかかわりました。これらの判断の中心は「律法」でした。礼拝の細かい規定、安息日にしていいことと悪いこと、安息日の守り方など、細かい「戒律」が作られて、それに服従する人が「良き人」でした。

 しかし「神殿で礼拝しない人」や「シナゴーグに行かない人」も多くいました。戦時中、国家に協力しない人を「非国民」と呼びましたが、神社参拝をしない人が「非国民」と言われ、排斥されるような同調圧力がありました。そのように「シナゴーグに行かない人」や「律法を守れない人」や「神殿礼拝をしない人」は「罪人」と呼ばれたのです。

 イエス様も律法を破ることがあり、律法学者やファリサイ派の人々を厳しく糾弾することがあったので、当時の宗教家からはうとまれました。「掟破りの人間」であり、当時の常識的な人々の宗教を厳しく問い続けたからです。それがやがて十字架に付けられることになります。

 Story3:求めた中身

イエス様の言葉に「憐れみであって、いけにではない。」(マタイ127)という言葉があります。律法学者やファリサイ人は形式や外側の律法である「いけにえ」という宗教の儀式を守ることのみではなく、その本質をイエス様は求めました。形式は、備えているが、中身の「神の憐れみへの応答」が「いけにえ」であることは忘れてしまっている。「いけにえ」は捧げるが、本質が抜けてしまった形式主義になっているというのです。これは厳しい批判の言葉でもあります。礼拝は守っているが、現実生活とかけ離れて、サンデイクリスチャンになっていないか、と問いかけているようなものです。「律法とは神の愛、神のヘセド(憐れみ)という本質を守るもの」ですが、律法を守れば完成したかのように、思ってしまいます。

時間を守ることで言えば、単に「時間を遵守すればいい」のではなく」、時間を守る優しい心使いが必要なのです。余裕をもて人を待つことによって、柔らかい心でより豊かな出会いをすることができます。そして焦ることなく気持ちよく時間を過ごすことができるでしょう。優しい落ち着いた「心」が人生を楽しくするのです。

 Story4律法を成就する

「わたしが来たのは・・律法を廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ517)です。ファリサイ派や律法学者たちは、事細かに決められた律法にのみ目がいき、律法の遵守のみに気を取られて、神様の愛や憐れみを忘れていたのです。彼らは真面目になり過ぎて、神の愛と憐れみを忘れてしまっていたのです。

 イエス様が「律法を成就する」とおっしゃるのは、神様の愛と憐れみ、律法を守っていない人や「罪人」と言われた一般常識から外れているように見える人も神様の愛と憐れみの対象であるということを語られたのです。事実イエス様自身が「罪人」として十字架に付けられますが、神はこのイエス様を愛して、復活させて下さり、永遠の命を与えて下さったのです。キリストは「罪人のかしら」となりましたが、神はなお見捨てることはなかったのです。

 

 私たちは自分の信仰的な考え、習い覚えて来た信仰生活、聖書の読み方や教会員との交わりが、固定されて律法となり、それで人を裁くことはないでしょうか。振り返ってみる、検証することが大切です。イエス様は固定した信仰形式から私たちを解放する方、律法主義から自由にする方なのです。