礼拝メッセージ1/10『誘惑する者との闘い』

誘惑する者との闘い

Story 1:病院で

わたしは昨年心臓の手術と胆嚢の大きな手術を受けました。「4040夜」の入院生活の中、夜の静かな病院に、時々大声でうめき声が聞こえます。恐怖を覚えます。痛みを訴え、孤独であることを訴え、一人であることに耐えられない叫びを患者は上げます。その声を聴きつつ、点滴を受けるベッドに寝ながら本当に自分が世に役に立つ、貢献でき、足跡を残せる人生がおくれるだろうかという不安にかられます。無力さに落ち込むこともありました。

わたしたちの人生は、様々な誘惑との戦いの人生です。「健康でさえあれば・・・」「力があれば・・」「お金があれば・・・」「知識があれば・・」「技術や能力があれば・・」「あの人がいなければ・・・」「親が良ければ・・」「学歴があれば・・・」「良いリーダーがいれば・・」「子どもが良ければ・・・」「主人のかせぎが良ければ・・・」など私たちの希望や願いは、止むことなく広がり、時には打ちひしがれ、時には心の奥に恨みをひそませ、闘いながら人生を送っているのではないでしょうか。このような「誘惑から自由な人」はほとんど見ることが出来ません。

Story2:神の言葉で

イエス様は誘惑する者に対して旧約聖書を引用しつつ対応します。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」申命記8:4からの引用の言葉です。「生きる」という動詞は「期待ないしは継続のニュアンスの未来形」(岩波訳註解部分)と言われています。つまり幾度も誘惑はわれわれの身に迫るが、繰り返し繰り返し継続して神の言葉に生き続ける。そのように神の言葉に服従して生きることは未来にわたっても、続くであろう。そのようにして「神の言葉に生きること」が誘惑を突破する原点なのであり、神の言葉に生きることは「未来という射程を含む希望の言葉」なのです。

 人が誘惑に合う時、ほとんどが未来に希望を持てなくなっている時であり、その不安を解消しようとして誘惑に陥ります。しかし人間の未来への不安は払いのけることが出来たり、ごまかしたりすることは出来ず、永遠に人間存在そのものの中にあるものです。それが神から遠く堕罪した人間の本質です。そのような人間の中に、神の言葉は永遠にかかわり続け、人間の誘惑と罪から解放する言葉なのです。

 

Story3:未来を開く言葉

さらに物語は続きます。ここでもイエス様は申命記616節と613節を引用して誘惑する者の言葉に対応します。「あなたの神である主を試してはならない。」(7節)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」(10節)と応答します。「試みてはならない。」と「仕えよ。」は「命令的ニュアンスを含む未来形」また「命令的要素を内包する未来形」(岩波訳註解)であると言われます。

 命令形ですから「試すな」「主に仕えよ」と新共同訳のように訳すこともできます。イエス様の我々に対する命令の言葉です。警告の言葉でもありましょう。また未来形ですから岩波訳のように「試みることはないであろう」「彼にのみに仕えるであろう」とも訳すことが出来ます。将来にわたって試みることはなく、仕え続けるであろうという希望の言葉でもあります。イエス様は「人はそのような未来」に生きることが出来ると将来への約束を語るのです。

 誘惑する者の言葉、悪魔の言葉は一見魅力的に見え、人に希望や勇気を与えるように思えるものです。一時的にはそれで生きることが出来るように思えるものです。しかしそれらは幻想に終わり、決して真理に至ることはない。「永遠の命」にいたることはありません。

Story 4:パワーへの警告

サタンは色々な誘惑で誘います。「石がパンになるように命じよ。」(3節)と奇跡を起こすパワーを求めます。奇跡を起こす力は神のパワーを示すでしょう。しかしキリストはこれを拒否します。次は「天使たちは手であなたを支える」(6節)です。天使の支えは神の助けの印です。飛び降りた者を支える大胆な奇跡や助けを起こすのが神だ、そのパワーを示せと言います。しかしイエスはこの誘惑を拒否します。神である主を試み、神自身の力を自分のために利用するからです。第三に悪魔は「(わたしを)ひれ伏して拝むなら、これら(すべての国とその繁栄)をみんな与える」と語ります。強大な権威、巨大な都市、強大な範囲は権力や権威力の象徴です。これらを手に入れることは神のパワーと祝福のように見えるのです。しかしイエスはこの誘惑を拒否します。

 

 「世界で影響力を持つ100人」などの特集が組まれ、誰が経済的パワー、地位的パワー、名誉としてのパワーを持っているかは、私たちにとって魅力的です。しかし「神の言葉」への服従という「狭い道」こそが、まことの道であることをイエス様は語り続けているのです。