10月18日礼拝メッセージ

ふたりしずか

吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋いしき(吾妻鑑)~

Story 1 静御前の舞

みなさんは「ふたりしずか」という野草をご存じでしょうか?小さな白い花をつける小さな野草です。見過されてしまいそうな小さな花です。この名は鎌倉八幡宮で演じられる「静御前の舞」と関係があります。源義経は源平合戦の後に頼朝に捕らえられて鎌倉に送られます。静御前は鎌倉で、舞を舞うように命じられ、その時義経を慕って、上記の歌を歌って舞を舞います。しかし頼朝はこの歌を聞いて激怒します。頼朝の妻政子は「私も妻として気持ちは十分わかります」と頼朝をいさめます。やがて静御前が義経の子を宿していることがわかります。頼朝は男の子であれば殺害し、女の子ならば助けると告げます。静御前は男の子を産みます。家臣が男の子を奪おうとしますが、静御前は叫んで渡そうとはしません。しかし子供は奪われ、赤ちゃんは由比が浜の海に沈められてしまいます。やがて静御前は京へ送り返され、義経は東北へ逃れます。その後の二人は行方知らずとなります。この物語は恋愛物語のみではなく、時の権力者がその権力によって権力無き人々を抑圧することができる物語とも読むことができます。

Story 2 虐げの世界で

コヘレトは語ります。「見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。」(41

時代は変わっても、世は競争社会、権力社会、強い者がもてはやされる時代であることには変わりがありません。生き抜いて行くためには多大の犠牲はやむを得ないし、犠牲を払わなければ良き家庭や会社は作れないと人々は思うものです。いつまでも過去に浸っていては、生きていけないと考えるのも無理からぬことです。

しかし犠牲になった者の立場に立てば、義経を失い、子を失った静御前のように深い悲しみと空しさを経験することになります。この犠牲の悲しみは置き去りにされてはなりません。コヘレトは「すでに死んだ人を幸いと言おう。更に生きていかなければならに人よりも幸いだ。いや、その両者より幸福なのは、生まれて来なかった者だ。」(4:23)。何という悲しみの言葉でしょう。「空しい現実を見過さず」、「厳しく空しい現実に対面しながら」、信仰について思いを巡らすのです。

Story3二人が良い

空しい現実にもにもかかわらず、コヘレトは語ります。「一人でいるよりは二人でいるほうが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。」(4:9)世がどのように〈空の世界〉であっても、これは「二人」という人数のことを言っているのでありません。生き方の視点を語るのです。「共に生きる人」がいれば、人生は喜ばしいものになるというのです。これは神の意思です。「人が一人でいるのは良くない。ふさわしい助け手を与えよう」という創世記の言葉を思い越します。神は一人で生きることを望みません。また「インマヌエル」という言葉を連想させます。「神は共にいる」です。

神の本質を現すイエス様は、弟子たちに、「わたしはあなたを僕とは呼ばない。私はあなたを私の友と呼ぶ。」(ヨハネ1515)と語っています。罪があり、語られている言葉も理解できず、裏切っていく弟子たち、十字架のもとから去っていく弟子たちです。しかし、イエス様は「あなたは私の友」と呼んでいます。イエス様自身が見捨てることなく、友として寄り添ってくださることは、永遠の神の意志を示します。本当に有難いことです。生涯の友人として共に助け、励まし、支えて下さることを感謝したいと思います。イエス様は「命を捨てて」私たちの生涯の友となってくださったのです「一人よりも二人が良い」という言葉をイエス様は成就して下さったのです。私たちに一人の友もないと言うべきでありません。キリストは見捨てたと言うべきでもありません。御国に行くのも、イエス様と二人なのですから。「ふたりしずか」ではありませんが、最愛のキリスト・最愛の友人・最愛の家族に満足できる人生でありたいと思います。共にいるキリストと今週も生きて参りましょう。