8月30日礼拝メッセージ

 犠牲を覚える

「人間の意思です。」」(「平和への誓いの言葉」)


Story 1:犠牲ということ

「『あのようなことは、二度と起きてはならない。』広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、わたしたちの心にずっと生きています。人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。私たちの未来に、核兵器は必要ありません。私たちは、互いに認め合う優しい心を持ち続けます。私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。被爆地広島で育つ私たちは、当時の人々があきらめずにつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。」

これは今年の被爆50周年広島平和式典で宣言された、安北小6年長倉菜摘さんと矢野南小6年の大森駿佑さんの言葉です。私は「私たち人間の意思です。」と言う言葉に感銘を受けます。それは情緒、感情ではなく、人間の志し、人間の決心や決断、「わたしたちはそのように生きるのだ」という強固な願いと思いを表現しています。

 「原爆の犠牲者」に出会う時、私たちは弔いの式を行い、死ぬ意味や価値を考え、死の悲惨さに直面し、その意味や代償を引き受けて、良き世界を形成するという強い決断と意思を生むのです。そして次の世代への「死の意味」の継承をねがい、教育によってその犠牲を継承していきます。

Story 2:犠牲の子羊

 122123節を読みます。ヤーウェの神は「犠牲の子羊」を捧げ、その血を鴨居に塗るようにとイスラエルの民に命じます。イスラエルの民はこれを実行し、子羊を殺し、捧げものとし、鴨居にその血を塗ります。するとヤーウェはその家に災いを与えることなく、過ぎ越していかれ、イスラエルの民はエジプトから脱出することが出来ました。イスラエルの民はこの犠牲となった子羊のことを信仰の真ん中に据えました。犠牲の子羊は祭儀の中心となりました。

 犠牲には誠実な決断が含まれます。もう二度と戦争は繰り返さないと決意するのと同じように、イスラエルの民は神の贖いの助けに深く感謝し、神の助けと救いに心からの信仰の誠実が必要であること、他の神々には安易に服従せず、ヤーウェへの信仰と忠実、服従の決断を表明したのです。これは単なる情緒や感情の問題ではなく、広島の小学生のように「意志的な決断」なのです。「犠牲なった人々」の意味を軽く扱うことなく、犠牲となった者に誠実に生きる、このことと似ているのです。それは生き方の確固とした意志的なものです。

Story3:犠牲を伝える

 人はさらに、犠牲になった人々を思い起こし、犠牲の意味を伝承しようとは試みます。私はワシントンDCにあるホロコースト記念館を訪問したことがあります。ホロコースト記念館はユダヤ人虐殺を体験的に知ることができます。暗い牢屋のエレベーターに乗せられて階上への登り、サンダル、めがね、髪の毛等展示や焼かれて亡くなった人々の膨大な顔写真やガス室の部屋を通り抜けながら、暗い展示室を見て回ります。最後には旧約聖書の言葉が刻まれた部屋に入ります。そこにはキャンドルがともり、刻まれた聖句を読むようになっています。その聖句とは

「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」(申命記3019‐20)

という荘厳な聖句です。犠牲になった人々を思い起こし、犠牲とは何かを問い求め、犠牲者について記念を行い、犠牲の意味を学び、呪いの世界で神の命を、次の世代にも語り継いでいくのです。それは犠牲者が語りかける教育の現場でもありました。犠牲は教育と伝承を生みます。

Story4:語り継ぐ教育

 本日の後半122428節の部分は「このことをあなたと子孫のための定めとし、永遠に守らねばならない。子共がこの儀式にはどういう意味があるのですかと尋ねるときは、こう答えなさい。『これは主の過ぎ越しの儀式である。主がエジプトを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越されたのである。』と。」

過ぎ越しの出来事、子羊の贖いは救いの出来事として伝承されていきました。過ぎ越しの祭りを行うたびに、犠牲になった子羊、主の救い、苦難のエジプトからの脱出を思い越し、主が救い主、贖い主であることを心に刻むのです。それはきっと感謝、悔い改め、主への新しい献身の思い、解放の神であることの再確認を含んでいるのです。教会もこの子羊の贖いをキリストの出来事の中に見出して、主の晩餐式を守り続けるのです。伝道とは犠牲を語り継ぐことです。

新生讃美歌626番は贖いの讃美歌です。「主は命を 与えませり

 主は血潮を 流しませり

 その死によりてぞ われは生きぬ

 われ何をなして 主に報いし」

広島の小学生たちは原爆の犠牲者に報いる人生を決断しました。同じように罪のために捧げられた贖いの子羊、イエス・キリストの犠牲に報いる人生を送りましょう。それが教会の本質です。