8月16日礼拝メッセージ

自分を捨てて従う者

「わたしは何者でしょう。」(出エ3:11

Story 1 モーセの半生

父はアムラム、母はヨゲベドです。当時ファラオは男の子を殺害するように命令しています。3か月を過ぎた「乳飲み子」の時に、母は隠し切れなくなって川に流します。それを王女が拾い上げます。名は王女がつけます。モーセと言う名は「水から引き上げたマーシャー」に基づきます。姉のミリアムの機転で、母ヨゲベドが乳母となります。王宮で育ちます。彼は疎外感を持って育ちます。外国人であることを知られないように育ちます。成人して同胞のイスラエル人が重労働に課せられていることを見て、エジプト人を殺害してしまいます。彼は誰も見ていない時にその死体を砂に埋めます。しかしファラオに知られ、王はモーセを殺害しようします。モーセは繁栄の国エジプト、自分が育った宮廷を去り、逃亡します。これは王、宮廷という母体から、自立と独立の道になります。ミディアンの地で羊飼いとなり孤独な生活を送ります。やがて彼はツィポラをめとります。息子ゲルショムが与えられます。ゲルショムとは「寄留者」という意味です。エジプトでもミディアンの地でも彼の人生は「根無し草」のように漂う人生であったことを示しています。さらに神が語りかけた時には高齢者になっていました。

モーセは神から声をかけられた時に「わたしは何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、しかも人々をエジプトから導き出さねばならいのですか。」(3:11)と神様に語ります。浮草人生の自分とは何だろうか。自分探しです。自分を殺害しようとする王もとへ帰ること、年齢、妻や子のこと、羊という財産、事の重大さを考えると、余りにも神の使命を果たすにはふさわしくないように思えたのです。

Story 2 無きに等しい者

コリントの1章を読みました。パウロは「召された時のことを思い起こしなさい。人間的に見て知恵のあるものが多かったわけでもなく、能力のある者が多かったわけでもない。家柄が良いということでもない。」(26)と語ります。本当にそうです。世の知恵、神の知恵に満ちているわけでもありません。何か目を見張る能力があるわけでもありません。ましてや家柄が良い、名家の育ちという者でもありません。「世の無学な者を選び、世の無力な者を選び、世の無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者を選ばれた」(2729)とあります。本当にこれはモーセや私たちのことだと思わされます。

Story3 神の名(別紙参照)

そんな母体を離れ、無力なモーセに神様の側から神自身の名を語ります。神は「あなたの立っている場所は聖なる土地」(5)だと語ります。ミディアンの地は何もない砂漠の地です。そこは聖なる場所なのだと言います。頼るもの無き荒涼のとした砂漠で、エジプトの神殿ではない場で、主は語ります。また「わたしはアブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神である」(6)とも語ります。モーセの先祖たちを導き助け、励ましてきた神であることを語ります。さらに「わたしは民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫ぶ声を聴き、痛みを知った」(7)と語ります。神は「見て・聴いて・知っている方」なのだと言うのです。砂漠で貧しく生きる、私たちのことを深く心にかけている方なのです。「それゆえにわたしは降っていき、民を導き上る」(9)と語ります。我々が神になるのではなく、神ご自身が天から下っていくと言います。モーセはそれでも納得できないのです。「人が神様の名は何と言いますかと尋ねて来たら、何と言えば良いのですか」(13)と訊きます。モーセは神様がどんな方かスラスラと答える自信がなかった。神様について全部は知らなかった。神は言います。「わたしはあるというものだ。これがわたしの名」(14)と。

 

Story4神への服従   ただ一人の神は多様な働きを我々に行います。モーセは「神様のことを全部わかっていたわけではない。」むしろ良く分かっていない。しかし、さらにモーセと言葉を交えます。「わたしは自ら手を下し、あらゆる驚くべき業をエジプトの中で行いこれを打つ・・エジプト人の好意を得させるようにしよう。」(2021)と語ります。導き出すのは、神ご自身なのです。出エジプトは神ご自身の働きです。要は自分に何ができるかではなく、神の言葉に聞き、神に服従することです。神を使って自分の目的を達成することではありません。主がなさる働きに、モーセは仕えるのです。信仰とは主の働きに服従することです。自分の状況を考えると無理に見えますが、モーセは自分を捧げて神のみ旨に従ったのです。み旨への服従です。キリストについてパウロは語っています。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固守しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ2:6以下)キリストもまた死に至るまで従順でした。