7月26日礼拝メッセージ

(いえに) (かえりて) (おん) (ざす)

「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」(テサロニケⅡ35

Story 1 家で座す

むかし修行中の禅の若いお坊さんがいました。彼はいくら修行しても悟りの境地に至りません。そこで「世界は広い。必ずどこかに悟りを開く場所、悟りを教えてくれる出会いがあるはずだ」と思い、色々なところへ出かけました。江戸に行き、京都に行き、奈良に行き、中国に行きたい、はてはインドへも行きたいと、うろうろしておりました。ある時一人の導師に出会いました。それで、なかなか悟りが開けませんと相談しました。すると導師が言いました。「まあまあ、あせりなさんな。自分の家に帰りなさい。そして自分の家や寺で黙って座禅をしなさい。そこが本当の自分の悟りの場であるとわかるはずです。家(本来の場所)に帰っ

て穏坐す(静かに座る)。」帰るべきところに帰って、心を騒がさず、忍耐深く静かに座れば悟りは開けるというと教えたのです。わたしたちもあせって、あっち行ってこっち行ってウロウロせず、与えられた現場、教会、キリストの下に帰って、地道に祈りの生活をおくるなら、信仰の深みへ至るのです。

Story2祈りのしあわせ

さて、パウロも自分の現場でしっかり働き、祈った人です。パウロは祈って下さいと求めています。「兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。」(1)、「主の言葉がのべ伝えられ、あがめられるように祈ってください、悪人から逃れられるように祈ってください」(2)、「主があなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(5)これも現場で苦闘しているパウロの祈りと願いです。私はクリスチャンになって祈祷会に良く出ていました。その時先輩たちが「覚えて祈る」という言葉を使っていました。あまり一般的には使わない言葉だと思いました。しかしこの言葉は大変すばらしい言葉だと思いました。誰かのことを「絶えず記憶して忘れない。」心の中で神様に執り成しを、し続けて祈るという意味だと思います。自分のことだけではなく、家族や友人のために直ぐに結果が出なくても現場で祈り続ける忍耐深い祈りです。「キリストの忍耐」(5)とありますが、イエス様が一番忍耐深く「覚えて祈って下っている」と思います。礼拝のこの場所はゲッセマネの園です。またこの礼拝の場所は、十字架の祈りの下です。今日も十字架の上で執り成しの祈りをし、祈ってくださっていると感じます。

Story 3 生活を大事に

パウロは終末が近いと言って慌てないように語ります。そして「夜昼大変苦労して働き続けた。」(8)、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いた仕事をしなさい。」(12)、「たゆまず善いことをしなさい。」(13)と語っています。家族や仕事を捨てて、宗教集団に閉じこもっていくような信仰を奨励してはいません。オーム真理教や宗教的な過激な閉鎖集団になることを望んではいません。むしろ日常生活の中で与えられた責任や家族や仕事を果たすことを望んでいるのです。「世にあって主に仕える」ということを願っているのです。自分の重荷を負ってわたしに従って来なさいと言っているのです。自分に与えられた家族、職場、具体的な人間関係の中で、証人として世の務めを果たしながら生きるようにと祈っているのです。日常生活の働きや仕事や労働は祈りです。教会は安息の場であります。わたしたちは現実の中で生きるように派遣されます。         

Story平和があるように

さて2か月にわたってテサロニケの手紙を読んできました。パウロは最後の言葉を祈りと願い終わっています。「平和の主ご自身が平和を与えてくださるように。」(16)、「平和の主がいつも皆さんとおられるように。」(6)、「主イエス・キリストの恵みが一同と共にあるように。」(18)。

 

 テサロニケの人々は模範の教会でした。しかし「すべての人に信仰があるわけではないのです。」(2)とか、「わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。」(6)とか、結構微妙な関係を語っています。最新の注意を払いながら生きていたことがわかります。でもパウロの最後の祈りと願いとは「キリストの平和」があるようにということでした。戦いが多く苦労が多く、試練が襲ってくるわたしたちの人生。でもキリストの平和の中に座して、動かず、働きたいと思います。「家に帰りて、穏坐す。」静かに主の力を受けつつ新しい一週間を過ごしましょう。