7月12日礼拝メッセージ

 

美しく見る

(八木重吉「貧しき信徒」より)

「その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように」(テサロニケ111

Story 1 八木重吉のこと

「わたしの かたわらにたち  わたしを見る 美しく見る。」

この詩はクリスチャン詩人八木重吉の詩です。彼は現在の町田市で1898年(明治31年)に生まれました。家は農家でした。相模原の小学校を卒業し、1912年に鎌倉の師範学校に入学します。小田原出身のキリスト者北村透谷(1894年明治27年に日清戦争に反対し自死)の影響などの影響を受けて、1919年に駒込の教会で洗礼を受け、キリスト者となりました。同じ年にスペイン風邪になり、その後病との戦いが始まります。やがて島田とみという女性と出会います。彼女は長く肋膜炎の病気を持っている人でした。この病気と恋愛結婚であったため、親族は結婚に反対します。しかし重吉は反対を押し切って結婚をします。彼は英語の先生として働きました。1926年に結核を患い、茅ケ崎にある南湖院で治療を受けました。1年後には病状が悪化し、回復することなく闘病生活後召されました。わずかに26歳でした。現在、茅ケ崎に残る南湖院の跡地の近くに、八木重吉の記念碑が建てられています。

Story2 美しく見る  

 八木重吉の詩は、ひらがなが用いられ、まことに短い10行前後の詩がほとんで、平易で簡素なものです。彼の人生は病の人生でしたが、その苦しみや痛みを体に負いながら、自分や人生をやさしく見つめる視点で満ちています。病を抱えた苦しみの中で、重吉は「わたしを見る。美しく見る」と語っています。病に苦しむ生活の中で、自分を「やさしく見つめる」視点をもっています。自分に優しく、自分を美しく見る視点、それはイエス様の優しさの視点だと思います。神様にどんな時でも愛されているということによって、自分に優しくでき、大切にできたのです。わたしたちは自分を絶えず評価し、見つめ、自分の弱さや情けなさ、自分が理想の姿に遠いことに苦しみます。人と比べて絶望したり、ねたんだりします。しかしこのような罪人を神は無条件に優しく愛するのです。

Story 3 終末のキリスト

 さてテサロニケ1章は「終末について」述べています。1:8-9節には「キリストに服従しない者」「神を認めない者」「福音に従わない者」への厳しい神の裁きや破滅が語られます。

しかし同時に1:6「キリストに服従する者」へは「休息」が豊かに与えられることを語っています。また11012の最後の部分には、「破滅」ではなく、神様の恵みにふれるようにと、祈りと願いがが記されています。「わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださるように」(111)と祈り、「栄光に輝く力(1:9)を受けることができるように」と祈っています。また「その御力で善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように」(1:11)とも祈ります。信仰は「善を求める願い」の道であり、終末の時にその願いが「成就すること」だと言っています。最後には「主イエスの名があがめられ、主によって誉れを受けるように」(1:12)と、苦難に会い、苦闘しつつ伝道している状況であっても、最後には神の誉れを受けるようにと願って、祈っているのです。

Story4 十字架と愛と

 「神は愛なり」「神は天地を創造されて良しとされた」「いつも喜んでいなさい。」「一人も滅びないで永遠の命を得るためである」など聖書の名句はすべて肯定的です。「喜ばしく創造され、人の『存在』そのものは肯定されるもの」なのです。聖書の神は愛です。この愛へと回復していくのが終末なのです。ここには人生を、評判、顔立ち、容姿、成功や失敗、お金のあるなし、地位や学歴、人種や皮膚の色、男女の性差、大人と子ども、病気、職業などを超えた視点があります。

自分や人生や世界を「美しく見る」ことは一朝一夕にできるものではないように思えます。自己絶対化の誘惑、失望と落胆との闘い(つまり十字架の苦難)、の中で、見えてくるものだと思います。パウロの祈りとイエス様の愛は、今を生きる私たちに「人生を美しく見る、優しく見る、慰めで見る」豊かな視点を見せています。共にこの視点を身につけられるように祈りに精進していきたいと思います。互いに祈りあいましょう。