冬だけが持つ、深さとさびしさと静けさを知ろう。
(渡辺和子:「見えないけれど、大切なもの」から)
わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められた。(Ⅰテサ5:9)
江戸時代の禅僧、仙崖和尚(せんがいおしょう)が次のような歌を詠んでいる。
Story 1 仙崖和尚の歌
「しわがよる ほくろができる 腰曲がる 頭がはげる 毛は白くなる。手はふるう 足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず、眼はうとくなる。身に合うは 頭巾 襟巻 杖 眼鏡 湯たんぽ 温石(おんじゃく) しびん 孫の手。聞きたがる 死にともながる 淋しがる 心はまがる 欲ふかくなる。 くどくなる 気短になる ぐちになる でしゃばりたがる 世話やきたがる。 またしても 同じ話に孫ほめる 達者自慢に 人をあなどる。」 高齢期は人生の冬といわれるが、人生の最後の時期を「立派に生きる」のもまた大きな仕事である。
Story 2「あとがない」
高齢になることは、若い時には容易にできたこともできなくなる。小さな階段でも良くつまずく。どこにいっても自分より年下の人ばかりとなり、若い人が次々と良き働きをしていると「あの人大丈夫?」と思う。「大丈夫?」なのは自分だと気づかないでいる。老いているという自覚を持つのはなかなか難しいものだと思う。若い時は「将来」ばかり気にしていた。しかしこの年になると「人生の残りの時間はどのくらいだろう」とばかり考え、「残りの時間」が人生の中心に来る。そうなると、あせりが多くなって、気短になり、「イエス様の愛、寛容な心」も、どこかへ吹き飛んでしまう。
Story3 終末について
このような個人の生き方を中心にした視点ではなく、もっと大きな視点、つまり世界とは、歴史とは言った大きな視点(巨視的視点)から人生を考えることを、聖書は勧(すす)めている。
今日の聖書で言えば「聖書の終末論」という視点である。パウロは「主の日が到来」すると語る。「この日」は信仰を持たない人々にとっては「突然の日」に思えるが、キリストの復活、十字架、贖いを信ずる者にとっては「突然の日」ではない。「主の日」は「ラッパが鳴り」、「大天使と共にキリストが再臨し」、すでに死んだ者が復活し、生きている人々と共に「空中に挙げられて」、「いつまでも主と共にいる」ことになる。(Ⅰテサ4:13-5:11)歴史の最後は「キリスト共に住む」ことになる。これが最後の喜びである。
この日は「今までの世界が刷新され、完全な神の御支配が完成する喜びの日である。歴史の最後は「主と共に住む(インマヌエル!)」が完成する喜びの時なのである。この考え方はイエス様、ヨハネ黙示録、パウロ自身、旧約聖書の中にもあり、聖書の中に「一貫して流れる大河」であり、聖書が語る「三位一体の神が貫徹する、喜びの約束・永遠の契約」である。
Story4 神父の詩
日本で生涯を捧げ、教育と牧会に身を捧げたホイベルス神父は次ような詩を残している。
「この世で最上のわざはなに。楽しい心で年を取り、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を行くのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことの故郷に行くために。おのれをこの世につなぐくさりを、少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後に一番良い仕事を残してくださる。それは祈りだ。手はなにもできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聴くだろう。来よ。わが友よ、われなんじを見捨てじと。」
パウロは「互いに励ましあいなさい。」(4:18、5:7、11)と何度も勧めている。終末の招きに、目を定めよう!