6月21日礼拝メッセージ

愛や優しさを回避する人々

(岡田尊司著「回避性愛着障害~絆が希薄な人たち」より)

あなたがたに是非会いたいと望んでいる。(サ3:6)

 

Story 1 関係から逃げる

種田山頭火という俳句作家がいます。流浪の俳人です。彼は10歳の時に母を亡くしました。お母さんは体が弱く、長く結核を病み、離れの長屋で寝たきりの生活でした。父はそんな母を思うこともなく、女遊びにうつつをぬかす生活でした。山頭火も養子に出されようとする話もありました。弟を産んですぐに母は鬱となり、山頭火が遊んでいる時に、庭の井戸に身を投げて自死してしまいます。その遺体の恐ろしさに山頭火は祖母の着物にすがりついて、恐怖心におびえて激しく泣いたそうです。母の喪失の悲しみを山頭火は生涯引きずることになります。母の死後祖母に育てられますが、学校も休みがち、苦しいこと悲しいことに目を向けることが出来なくなり、成績は良かったにもかかわらず、努力せず大学にも落ちました。母喪失の痛みから逃避するために文学の世界にのめりこみ、人と関係を結ばない放浪の生活を送りました。

Story 2 是非会いたい

 現代もパソコン、漫画、ネット、アニメ、スマホにのめり込み、苦しみや痛みから逃避して、人間関係を結ばない時代、関係を最小限にする「関係逃避型」の世界になっているのではないでしょうか。ですからキリスト教も「個人の癒し」であれば十分なのです。

しかしパウはテサロニケの人々に強い愛情を示し、すぐに飛んで行ってでも会いたいという親密な関係、親密な事情を率直に示しています。パウロは常に「ちり、滓(カス)、世のくず」のように言われましたが(コリ4:9-13)、彼の湧き上がる「愛情」は途切れることはありません。現実から逃避することもありませんでした。人々の無理解の中にあっても、キリストを語り続けたのです。十字架の弱さこそが、「不変の神の愛」であることを知ったからです。

Story3 親密さ

パウロは豊かな自己肯定と人への愛情が健全な人であったと思います。3;6「信仰と愛について嬉しい知らせ(福音:ユヴァンゲリオン)を受けた」、3;7「あなたがたの信仰によって励まされた(パラクレートス;聖霊の別名)」、3:9「神の前で喜び溢れている」、3:9「この大きな喜びにどのように感謝(ユーカリスティア:晩餐式という意味のギリシャ語)捧げたらよいでしょう」と語り、テサロニケの人々の信仰をほめたたえ、感謝を示しています。2:19では「わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠」とまで語っています。パウロは率直に喜びを現し、テサロニケの人々との愛情関係を深く喜んでいるのです。フィリピ書と似て、喜びの手紙とも言えます。関係をめんどうくさがったりせず、貧しくとも、人を心から愛し、喜べることは人生の最大の喜びですが、パウロは自分の弱さ、罪深さ、人からうとまれたにもかかわらず、深い幸福感に包まれています。「絶対の愛」に基礎を置いているのです。

Story4 神の豊かさ

なぜパウロはこのようにいられたのでしょうか。手紙から探ってみましょう。3:12「主があなたがたをお互いの愛とすべての人への愛とで豊かに満ちあふれさせてくださいますように。」と祈っています。この文書はギリシャでは「希求法」が用いられ、「イエス様は必ずそうしてくださるので、そう祈ります」という確信に基づく祈りです。神は愛で満たす方です。パウロの確信の信仰を示します。3:13では「主イエスが来られるとき、あなた方の心を強め、父なる神の御前で聖なる、非の打ちどころのないものとしてくださるように」と祈っています。神はわたしたちを喪失した引きこもりから救い出すのです。

わたしたちは山頭火のように喪失体験を重ねます。期待は裏切られ、年を重ねるにつれ体力は喪失し、試練によって自信を喪失し、死によってすべてを喪失し、子は親に、親は子に失望して虚無的に生きます。しかし主イエスはあらゆる喪失を超えた希望を与えます。