6月7日礼拝メッセージ

人間は自立も自足もしていない。常に外部の影響に晒されている者である。V・フランクル)ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもってみ言葉を受け入れ(テサ16

Story 1 人間の自立?

上記の言葉はオーストリアの精神科医フランクルの言葉です。フランクルはナチ収容所の異常な苦しみの中で、人々の苦しみ悲しみや絶望を体験しました。彼は「人は、絶えず荒波の様に打ち寄せる苦難によって、魂、心、精神を激しく荒らされ、常に魂の危機に晒されているものだ」と言っています。ですから「荒らされた魂を持つ」人間中心に物事を考えることは非常に深い危険を招くと警告しています。自分の側から見たり、自分を尺度にしたり、自分の判断を中心にすることは、用心深くあったほうがいいというのです。

Story 2ひどい苦しみ

パウロ自身もそうでしたが、テサロニケの人々も「ひどい苦しみの中に」(1:6)ありました。「激しい苦闘の中で」(22)、「わたしたちの労苦と骨折り」(29)、「同胞から苦しめられた」(214)、「苦難に会うように定められている」(33)などテサロニケには、しつこい程の苦難の記述が繰返し行われています。                     人生は多くの試練、挫折、失望や落胆に満ちているものです。竹内まりあの歌に「いのちの歌」という曲があります。その中で「泣きたい日もある、絶望の日もある」という歌詞があります。人は幸福に見えても色々な挫折や困難に出会って生きているものです。その試練は口に出すこともできず、心の内に秘められ、理解されることもないままに、人は日常を忙しく生きているのではないでしょうか。精神科医フランクルが語っているように、最も深い「荒らされた魂」は隠されたままで、置き去りにされています。パウロもまた「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(コリ23)と語っています。不安や恐れや恐怖の中で、不安定な心の動揺を経験しながら伝道していたのです。

Story3聖霊の喜び

このような不安や挫折や混乱の中で、パウロやテサロニケの人々に「心の健全さと生きる力を根源的に与えるものがあったこと」を聖書は語ります。それは虚無的な人生観を土台にした喜びでもなく、人生はお金だと言う金銭主義の喜びでもなく、人生は地位と名誉と世に名を残すことだと言う現実主義の喜びでもないものでした。

人間の根源、苦難・死・存在・他者との関係などを支える「キリストの出来事」であったのです。それは「主イエス・キリストに対する希望」(13)、「生けるまことの神」(19)、「神が死者の中から復活させたイエス・キリスト」(1:10)、「来るべき怒りからわたしたちを救うイエス」(110)でした。キリストは死を打ち破り、生きた方として今もその聖霊を与え、「聖霊による喜び」を我々に与える方であることを聖書は語ります。人間という「荒らされ、苦難に晒されたざらついた魂」に根拠を置くのではなく、永遠の命を与える神、死から復活させる神、創造する神の内に希望と存在理由を求めることが大切です。

 

Story4水源を荒らすな 礼拝の休止の生活の中で、私は一つの聖句に出会いました。それは「泉が踏み汚され、水源が荒らされる。神に従う人が神に逆らう者の前によろめく」(箴言2526)という言葉です。イエス様はご自分のことを「生きた水が湧き上がる」と語っています。この命が湧き上がる泉を踏み荒らし、汚し、荒らさないようにすることが信仰を長く保つことです。自分の罪の深淵、人の言葉、社会の様々な出来事が「いのちの泉」を踏み荒らします。しかし「この水源」を何物にも荒らさせてはなりません。いのちの水源をふさぐな!「いのちの水源」を人間の中にではなく、キリストの中に見出す者は永遠の命の幸いを味わうのです!