5月24日礼拝メッセージ

「発症者二桁に減り良いほうのニュースにカウントされる人たち」(俵 万智)

 

聖書:使徒言行録8:1-8節  

ステファノは殉教し、エルサレムのキリスト者へも大迫害が起こります。しかし福音は広がります。

Story 1:哲学者 万智の言葉 これは俵 万智の短歌です。ウィルスによる発症またはその死は厳しい個人の苦しみや悲しみであるにも関わらず、その痛みは忘れ去られて、「良いほうのニュース」としてカウントされる。そこでは「数」が第一であり、人間の死や病が大切なことであることは後回し成っています。この詩を紹介した鷲田清一は「誰かの死は一つの死として、別の誰かの死と比較も計量も交換もできない。が、知らぬまにそういう生の地表を立ち去り、死を上空から数える側に回っている。」と注釈しています。イエス様の言葉に「1人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ316)という言葉がある。「1人も滅びない」と「誰かの死は・・・比較も計量もできない」という考えとは大変近い。キリストが世に来られたとは「死を上空から数える側に回らない」立場に立つことだと思わされる。

 

Story 2:見逃されて来た視座 ステファノの殉教については、四日市教会の牧師加藤先生が「聖書教育」の書かれているように、「ヘブライオイ」と「ヘレニスタイ」の亀裂に端を発していることは承知のとおりです。しかしステファノによる厳しい批判にも目を止めるべきであろう。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたはいつも聖霊に逆らっています。」(751)というステファノの率直な指摘は怒りを引き起こし、「あなたがの先祖が逆らったようにあなたがたもそうしているのです。」(751)と先祖の罪まで指摘する。さらに「そして、今やあなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」(752)と「あなたがた」と個人の領域に、厳しく切り込んでいく。この様にしてステファノは殺害される。事なかれ主義、個人の世界には入らせない、入らないことを求める現代には、「あなたに人の先祖のことなど、言われる筋合いはない!」ことなのだ。

Story:ボンフェッファの殉教 私は伝道するために殉教せよと言うつもりは全くない。しかし殉教者の生き方は私たちに伝道の力を与えるものです。 ディートリッヒ・ボンフェッファはナチス政権のもとで、神学生を育て続けた。彼はヒットラー政権を直接批判する神学やビラや抵抗運動を表立って行ったキリスト者ではない。しかし彼の霊想書、神学的作品、家族への手紙、獄中書簡など残された著作を見ると明らかに信仰によって独裁政権の思想や運動を乗り越えようとする政権批判思想となっている。当時のキリスト教会や牧師や信徒や神学者の全部が、迫害を恐れてナチ政権に「擦り寄っていく」時代の中で、わずかなキリスト者たちと共に「バルメン宣言」の賛同者となりました。この宣言自体も「信仰宣言」であって、必ずしも「政権批判宣言」ではない。しかし彼は神学校を閉鎖され、牧師養成機関を失う。そしてフィンケンバルデというバルト海の近くへ逃避して神学生を育てる。彼は「国防軍情報部」で働く場を親戚を通して与えられ、ナチの情報を知るようになる。その中でヒットラー政権批判者として逮捕され、フロッセンビュルグの収容所に送られ投獄され、独房に閉ざされて殺害される。しかし彼の著作は永遠にキリスト者の信仰を手助けする豊かな作品群を生んだのです。

Story 4:悲しみと葬りを経て 今日の聖書個所は決して信仰の英雄伝ではない。「大迫害」(81)の中で、ステファノを「葬り」(2)、「彼のことを思って泣き悲しんだ。」(2)という信仰の質を問う物語なのです。葬りの時にどんな決心をしたのか、「泣き悲しんだ時に」どんな決断があったのかを深く推測することのできる痛みが、福音の宣教の力となったのです。これは英雄談ではなく、罪責とその赦しを求める信仰の告白であることを思い出す必要があります。そのことが新しい宣教の力を生んでいったのです。

 そしてこの「葬りと悲しみ」は十字架上で殺害されたキリストへの共感となったのです。キリストの死が「罪のゆえの死」「贖罪の死」であるという実感と重なったのです。家族を捨てる、兄弟を捨てる、金銭や地位を捨てる、そして神の言葉へとキリストの祈りに服従することが、本質的に最も家族を再び切り結ぶものであり、「神の愛」として感得されるときに「キリストへの服従」が会得されていくのであろう。それはキリストが神の召命に完全に服従した「召命」のことであると思います。

 

 最後に7節を見ると、新しい宣教は「汚れた霊を追い出す宣教」となっている。彼らの宣教はその様な力をもっている宣教であった。現代の私たちの生活の中で、「汚れた霊」とはどんなことを指すか、慎重に霊操する必要がある。また「汚れた霊」の代わりに、聖霊が内住し、私たちの心を支配するように宣教したいと思わされます。「追い出すだけ」「汚れていると言うだけ」ではなく、聖霊の内住があるように、働き、祈り続け、関係を持ち続ける、時間をかけた伝道もまた必要とされているのです。