5月17日礼拝メッセージ

「耳を集中する時は目を殺すんだよ。」

  聖書:使徒言行録3:1-10   足が不自由で、運ばれて来た、施しを乞う者を神様は見捨てない方です。

Story 1:坂東三津五郎の言葉これは59日に新聞に紹介されていた歌舞伎役者坂東三津五郎の言葉です。「鐘の音を聴く場面で、首を傾けて、手を耳にあてるだけでは表現はまだ曖昧だ。その時、目は死んでいるはず。妙なしなをつくるより、普段していいることをきちんと見よ。」と解説文にありました。「手を耳にあてるしな」ではなく「目を殺してしまう」のです。そこには確かに「聴く」という集中力と心底物事を聴き取るという深みのある表現ができるというのです。「しなをつくった信仰」は表だけの信仰になります。「黙って毛を刈られる小羊の如くなるまで、自己死に徹する時」神の言葉は聴こえるのです。説教を聞く、聖書から言葉を聞く時に、自分の信仰の目は死なせる、聞き入ることが必要なのです。歌舞伎の極意は、信仰の極意でもあるように思います。

Story 2:足の悪い人 今日の聖書の個所に出てくる人についてみてみましょう。生まれながらに足が不自由であったとあります。病気は何だろうかと考えますが、病気の原因など分からない時代です。この様な病気の人は当時、敗残者、余りもの、役立たず、として扱われ、世の余白に生きる以外ない「あぶれ者」でした。また「運ばれて来た」と言われていますので、戸板にでも乗せられて運ばれたのでしょう。物として扱われ、廃棄物を捨てるように運んでこられた者でした。さらに「神殿のそばに置いてもらっていた」とありますので、いてはいけない場所に、「ついでに」おいてもらった者です。人間は荷物のように「置いてもらうもの」ではありません。最後に「施しを乞うた」とありますので、お金がなかったことを示します。それは仕事がなく、支える家族がなく、支える組織もなったことを意味しています。彼はそのような言わば、天涯孤独、「捨てれた存在」でした。

Story:キリストの名、手を取るそばを通りかかったペテロとヨハネはこの「世の余白に置かれた足なえ」、普通は見過ごされる人間に、目を留めます。ペテロとヨハネは「(この男を)じっと見た」と書いています。この男に気付き、心が向いて、思いがこの男に集中したことを示しています。二人が言ったのは「金銀は私にはない」ということでした。二人はお金は持ちませんでした。お金だけ渡して立ち去るということではなかったのです。わたしたちは大概、この様な場合、お金で済ますのではないでしょうか。多少のお金を恵んでも、深い関係は持ちたくないものです。 お金がない二人が行ったことはどんなことだったでしょうか。それは「キリストの名によって歩きなさい」という言葉でした。具体的な金があれば、何でもできます。宗教はその後からでよいと考える人も多いと思います。しかし二人が語ったことは、「キリストの名によって歩きなさい。」と言う呼びかけでした。この男が立ち上がったとは、「創造」の出来事がこの男に起こったことを示します。神の創造は無からの創造、喜びの創造なのです。

Story 4:辻井伸行さんのピアノタッチ そしてさらにペテロとヨハネは「右手を取って彼を立ち上がらせた」とあります。二人はやさしく、介添えするように、足が悪い人を「右手を取って立ち上がらせた」のです。手をやさしく添えてあげたことが記されています。辻井伸行さんという素晴らしいピアニストがいます。彼は生まれた時から目が見えませんでした。私は彼のピアノを聞くたびに深い感動に襲われ、言い知れない、言葉にできない美しさや心が震える感動を味わいます。ショパン、ベートーベン、ラフマニノフ等、今までにはない「美しい音色」に心が躍ります。また彼が登場する際に、指揮者やコンサートマスターが優しく介助しながら入ってくる、あのやさしさは大変美しいものです。指揮者の佐渡 渡さんがそっと手を添える、何か本当に触れてはいけないものに、初めて触れるようなやさしさがあります。そして彼自身が、椅子に座り、やさしく鍵盤にタッチして、鍵盤を確認します。その指先は微妙に震えています。そのタッチの触れ方が、また神聖で美しいものです。ピアノという物体に触れますが、それは音楽芸術という、「心を打つ魂にふれること」だと思わされます。

 

「右手を取って彼を立ちがらせる」(37)とは、「痛んだ心にやさしく触れる行為」でもあります。心は壊れやすいもので、やわらかい赤ちゃんを抱くように、心に触れなければなりません。イエス様のやさしさもそのようなやさしさや微妙さをもっています。触れる行為によって、キリストが体感できたのです。お金ではない、もっと深いタッチによって足の悪い人は立ち上がったのです。

 

 イエス様の愛が深い癒しへと繋がっています。心もそして体も癒されると時に「人間は立ち上がって喜ぶ」(389)のです。それは辻井さんのピアノに癒される瞬間に似ているように思います。

 

 またイエス様に触れる時、私たちは深い癒しを経験します。この深い癒しがあなた自身にも起こるのです。それはどんな慰めよりも深く有難いものです。